2010年6月20日日曜日

フルサトの距離 [惑星ソラリス]

初めてタルコフスキーの映画を観たときはロシア語のタイトルだけでワクワクした。ちょっと違うロシア文字のカタチには知らない風景が隠されていると感じた。当時のボクは、文豪も作曲家もバレリーナも映画監督もロシア人はとてつもなくスゴイというイメージを持っていたから(今もそれは変わらない)。 映画[惑星ソラリス](1972年公開)の冒頭シーンは透明な水の流れだ。水草がしなやかに揺れ続けている。方丈記の書き出しを思い出した。「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは かつ消え かつ結びて 久しくとどまりたるためしなし」 タルコフスキーには無常観がある。草原はいつも風に揺れていてセリフは唐突で結論がない。晴れていても雨が降るし部屋の中にも雨が降る。気がつけば黒い馬が駆けていく。ソラリスを探査する宇宙船の内部は雑然としていて配線はちぎれて機材が散乱している。窓からはぼんやりとソラリスの海が見える。ソラリスの海は霞んで渦巻いている。今度は西行の句が浮かぶ 「何事のおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる」。ソラリスの海はココロの形象化だった。映画[惑星ソラリス]はココロの風景化だった。だからモノクロとカラーが混在しても違和感がないし邪念と良心が同居していても破綻しない。死んだ妻が蘇れば抱きしめるし(生前より)もっと愛することが出来る。でも死んだ人間を愛してもしょうがない。振り返れば後悔があるけど前を向いても後悔は(既に)立ちふさがっていた。ソラリスの海にはスベテが含まれていてその心象風景は(母の)子守歌のようでわけもなく悲しくなる。

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