2013年7月6日土曜日

戦争はやめられない。記録映画[アルマジロ]


評判を聞いて気になっていた作品がDVDになったのでTSUTAYAで借りてきた。
冷えたサイダーを肉厚のガラスコップに注いでごっくんごっくん飲みながらソファに腰を沈めて観はじめたのだが、やがてサイダーには手を伸ばさなくなった。

記録映画[アルマジロ]には身も心も震えた。(2010年カンヌ国際映画祭批評家週間賞グランプリ作品)
「戦争は一度体験すると、やめられなくなる」という衝撃的な事実を突きつけられたからだ。
国際平和活動(PSO)による派兵で、タリバンと闘うアフガニスタン戦線のデンマーク兵士たちは、血みどろの肉弾戦から帰還しても、友や恋人や家族と過ごす平穏な生活を捨てて、また志願して戦地へ戻って行く。
ヤヌス・メッツ監督は言う。「若い兵士たちは緊迫した戦地を懐かしく思い、故郷での毎日に退屈さを募らせているように見えた。まるで中毒ではないか。」
アルマジロとは前線基地の名称である。映画は駐留するデンマーク兵の日常行動に七ヶ月間密着した。四台のカメラを駆使して出来事をひとつひとつ丁寧に記録する。
兵士たちは、夜にはパソコンでポルノビデオを見て仲間とふざけ合う無邪気で平凡な若者たちだ。ルーティンワークのパトロールには退屈を嘆き、味方の負傷報告を聞けば弱気になる。母と電話で話せば感傷的だし、休日には川に飛び込んで大はしゃぎする。
銃撃戦は突然始まった。兵士と同じ目線からカメラは戦況を撮り続ける。目の前を銃弾がかすめていく。敵は何人いるのか、どこから撃って来るのか。わからない。ハイテンションになり不明な言葉を大声で叫ぶ兵士は、狂ったようにマシンガンを撃ちまくる。恐怖に怯えた兵士は目の前の木を撃っていた。敵が潜む塹壕に手榴弾が投げ込まれた。これはフィクションではない、事実なのだ。ニュースフィルムと同じ実況を写した映像なのだ。驚くほど短時間で銃撃戦は終わった。まだアフガニスタンの荒野は明るい。負傷兵は手当を受ける。銃弾が靴にめり込んでいた。重傷者はヘリで運ばれる。テキパキと事後処理が進んでいく。塹壕に折り重なった血まみれの敵の死体をひとつひとつ剥がしていく時には「小男でヨカッタ」と軽いジョークが若い兵士の口をつく。数日後「またやりたいな」と一番ハンサムな兵士が言う。「あの充実感が忘れられない」と平然と言う。戦場は特別な場所だった。戦争が中毒になる。人間の心が壊れてしまう。

映画を観おわって少しだけ残っていた生ぬるい気の抜けたサイダーを飲み干した。強い西日が当たる書斎のカーテンをしゃりっと閉めて、電気もつけずに薄暗いデスクでキーボードを強く叩く。このコメントを書くために。    

2013年5月23日木曜日

カモの洞察 [フランシス・ベーコン展 BACON]


東京国立近代美術館は金曜日の午前中というせいもあってか比較的空いていた。ゴールデンウィークはどうせ混むだろうと思っていたから、休日開けを狙っての行動だったが、どんぴしゃ狙い通りだった。














フランシス・ベーコン展はNHKの[日曜美術館]でも、テレビ東京の[美の巨人たち]でも取り上げられたから、より一層の観客動員だろうと予想したのだ。実際にどれくらいの観客数だったかは知らない。別にそれについて調べてもいない。そこに興味があるわけではないから。
[日曜美術館]では、大江健三郎がリアリズム表現について、文学的に深く熱く語ったし、デビッド・リンチは幻想性について、ゴードン捜査主任(ツイン・ピークスでリンチが演じたFBI係官)の語り口でキビキビと映画的にまくしたてたから、ボクの期待は赤道直下のネズミの尻尾のようにピンと真上を向いたのだ。胸騒ぎの街角だ。


1500円でチケットを買って会場に一歩踏み入れば、そこには四国の山奥の辺境のプリミティブが真面目な顔をして必然を誇っているし、そしてさらに、[ツイン・ピークス]の赤い部屋の小さな男の体臭もムンムンと充満していて、やっぱり逆回転の発音(赤い部屋の小さな男のしゃべり方)がよほどリアルなんだと納得する四角四面の閉鎖空間だった。それは「原因を究明しない」で「結果にも興味を示さない」という、ボクが愛好する世界なのだった。

途中経過の任意の一瞬を切り出したフリーズフレームにこそ物語がある、ということくらいボクにでもわかる。小説を読んで映画をたくさん観ていれば当然の帰結なんだ。それはどうしてなのか、この先どうなるのか、それは読者と観客のイマジネイションが決める問題だ。カタクナな人たちよ、へんな憶測は止めて欲しい。親切な饒舌家は(または饒舌な親切家は)下心があるから注意した方がいいよ。わかりやすさは密の味なんだから。満足げな顔をして「よくわかりました」という人は嘘つきだよ。わかるはずはないんだ。だって元が嘘なんだから。

















箱の中で檻に閉じ込められた権威ある男がバックリと口を大きく開けて叫ぶ。ベーコンの代表的な作品、教皇の肖像だ。檻に閉じ込められて叫ぶ男の絵は一枚だけではない。いろいろある。頂点に立つ者を、こんな風に、いったい誰が檻に閉じ込めたのか。ベーコンである。ベーコンが最高の権威者を檻に閉じ込めてイタブッテいるのである。イタブッテいるベーコンの(嬉々とした)悦楽が伝わって来るではないか。ちびまるこちゃんの退いた表情に表れるタテ線の引用元と思われる、そこだけ土砂降りの雨のようなタテ線が、ここではガクガクと身体全体がブレている様を示す装飾模様として使われている。最高の権威者は完全にブレている。





展示室の角を曲がればゴッホの世界だった。これは模写というべき代物ではない。でも、あきらかにゴッホだ。ゴッホ的だ。ゴッホ的なのにベーコンだ。べちょついた筆遣いや畑の水平線や野武士のような構図は確かにゴッホだが、全然違う。これは南仏アルルの麦の匂いのする健康な陽射しではない。風景ですらない。ギトギトした臓物の皮膚である。ベーコンはゴッホの臓物を描いたのか。決して筋肉ではない、臓器のイメージだ。臓であり腑だ。焼肉屋の開店前の薄暗い店内で手際よく捌く臓物の下拵えの光景だ。気味が悪いが食欲をそそる。大蒜のタレに浸してパクパク食べたら抜群だ。






展示は続く。スフィンクスは人と獣(けもの)の合体だから、そこにベーコンはムラムラとした奥底の本能をくすぐられたのではないかな。四つ足で腹這いになって正面を見据えるポーズには、プライドと屈辱が仲良く乳剤になっている。水と油も根気強くグリグリとかき混ぜれば、渾然一体になって、象牙の表面のような滑らかな薄黄色の光沢の美味しいマヨネーズになるのだよ。プライドと屈辱のマヨネーズ。





ベーコンは問われて応えた。「私は、何をしているのかわからない意識で絵を描いています」と。本人がわからないモノを他人がわかるか、と言ってしまったら1500円の元が取れない。ボクにはわかる気がする、と言えばいい。オイラにゃ獣の血が騒ぐう、るるるる。

ベーコンはこんなことも言っている。「(暴力的な作品だと言われるが)暴力性があるのは現実の世界の方だ」と。そりゃそうだ。「絵画」をいくら挑発しても殴りかかっては来ない。「人」は後ろからそっと忍び寄って、平気な顔をしてバーンと撃つ。


男の頭部を描いた作品がある。恋人の顔らしい。でも、ベロンベロンにひしゃげている。とても苦しそうだ。この男は叫ばない。この苦痛は権威者の悲鳴とは質が違うのだ。質とは何だ。苦痛の性質のことだ。ベーコンはこの男をいたぶってはいない。やさしく見守っている。泣きたいほどに愛しいから、ベーコンは彼と苦痛を共有するのだ。恋人の苦痛が自分に伝わって苦しくてイタタマレナクてたまらない。ついにベーコンはジョージ・ダイアの顔面に撃抜かれたような穴をあけてしまった。こりゃたまらんぜ、ずこっ。痛てっ。

ツイン・ピークスの赤い部屋がある、と思うのは、ボクが今、この絵の前に立っているからだ。1968年から、この絵はこのように存在している。デビッド・リンチの粘膜をネリッと刺し貫いたのはこの絵だ、とボクは言った。リンチファンなら誰が見てもそう言ったと思う。舞台の緞帳のように波打つベルベッドは天井から床までスベテの壁面を覆い尽くして、こちら側にだけ開口部が拓けている。毛足の長い絨毯の上の一脚の椅子にどっかりと乗っている裸の男は起ちあがろうとして腰が砕けている。挫折の部屋だ。いや再起の部屋だ。挫折の部屋だ、いや再起の部屋だ。男にとって不能ほどツライことはない。起たない男。起てない男。



女はブヨブヨの肉の塊になっている。洗濯槽の真ん中で盛り上がる洗剤の泡の塊をシリコンで成形したような、触ってみたくなるブヨブヨには、バッタの腹のような赤味が注している。すごく綺麗だ、そして醜い。

ニッポンの屏風絵のような、三枚の絵が連作を為す[三幅対]は、人の気配を警戒して過度の緊張を強いられた老いたフクロウのような、ぴたっと静止した物語だった。極致的な数字である3の世界。三角形の絶対的な安定と、二元論プラス1のユラギ。3点セットの作品が触発する想像の余地は、モワモワと膨れあがるから、総量が三倍になるとでも言うのか。それとも逆にシュンシュンと縮こまって、1/3に狭められてしまうのか。3コマをストーリーボードに描けば、ストーリーテリングの極意である序破急を示すことも出来る。序破急は、ずずっと静かに始まって、やんやと盛り上がり、すとんとあっさり落ちる完全な物語。能舞台を見ればよくわかる。生と死の境界をやすやすと越えて、霊界から死者がやってくる物語に、序破急は、とても適した構成論なのだ。そしてさらに、視差やアングルを多角化すれば3D感覚にもなる。でも、そんな風に実直な原理解説をしたら、それはベーコンじゃないな。なぜなら、そんな説明では胸の高鳴りが騒がないからだ。重たくてネチョネチョした原始生物が食道から胃に落ちて腸の洞窟をモコモコと巡り行き、肺の胞には匂いのあるガスがいっぱいに充満してくる。なんだこの感触は、という常軌をイッした境地がベーコン世界なんだからさ。不快だけどやめられないゾンビ映画だ。恐怖映画への依存症は霊界と結ばれたいという人間の深層願望と関係があるのだろう。

ボディラインは不規則な曲線の連続なのに人間の身体は美しい。
腰の曲がった長髪の指揮者が汗を飛び散らかしながら、渾身の力を込めて振りまわすタクトの軌跡が描くオーガニックな曲線が心の籠ったボディラインの造形だとボクは思う。静寂から始まって絶頂へ向かうシンフォニーの音符群が女の身体の輪郭をなぞって蠢いているようだ。拍動は骨伝導するとボブディランは言った。(言ってない)

野蛮で残酷で冷血で疑り深くて親切で寂しがり屋なのは誰か。見られたいのに隠してしまう、誉められたいのに憎たらしい。一人だけ少年のままでいたって、友だちはみんな歳を取る。それ故にフランシス・ベーコンは孤独だったのか。

ベーコンの言う「神経模様」とは何だろう。確かにベーコンの作品は神経に障る。いきなり尻の穴をざらついた舌でベロンと舐められたように、ピリピリとした電気信号が幾度も走ってから、くすぐったさとムズ痒さが六頭立ての馬車で土煙を上げて疾走して来る。しばらくのあいだ執拗に舐め続けていたザラついた舌は、次第にムクムクと太く堅くなるのだった。樫の木のバットになるのだった。ボクの尻の穴は張り裂けんばかりにエグラレて、圧倒的に犯される。そりゃ痛いわさ。痛いけれどガマンする。ここがガマンの仕所なのだ、たぶん。下腹に響く樫の木のズンズンとした突き上げのリズムは、心臓の鼓動と息が合う。それは、まことにピッタリと同期するもんだから、なんだか信用していいという気持ちになってくる。だから特別な被害者意識が生じたりはない。それよりも、母胎の記憶を呼び起こして、これ以上ない至高の安寧に身を任せたくなる。思い出すのは、あの真綿の布団である。これ以上の柔らかさはない、あの軽くて暖かい、肌に触れると溶けてしまいそうな、絶頂の、あの布団のことだ。いやまてよ、ボクは心の奥底で(もしかしたら)暴力を望んでいるのかもしれないぞ。だから、その疾しさから自虐を求めて懺悔するのかもしれない。人が言うほどに自分を愛すことなんて実際は出来ないし、人が言うほどに絆が大切だとは正直考えたこともない。困った時に助けてもらいたいだけだ。でも、こんな思考の方法だって俗っぽい社会通念を気にしているが故に陥ってしまう人間の病なのかもしれないな。自分の弱さを直視したくないから、こんなことを言い出すんだろう。それもわかっている。わかっているけどやめらんない。げんなりだね。布団にくるまってフテ寝してしまいたいよ。もちろん、ザラついた舌も樫の木のバットも仮想の出来事だ。イメージのお話だ。だけどね、一度描いてしまったイメージは実体験の記憶と見分けがつかなくなっちゃうんだよ。困ったね。

国立近代美術館は北の丸公園にある。旧江戸城の一角だ。ボクは展覧会場を出ると、初夏のやわらかな陽射しを浴びながら、お池のほとりで、ひとりで弁当をもぐもぐと食べた。水面の反射が一羽の鴨を照らしている。鴨はしばらくボクの食べっぷりを見ていたが、凡庸な存在であることを見切ったらしく、躊躇なく飛び去っていった。ボクは弁当をきれいに平らげた。
(東京国立近代美術館 2013年5月16日)