2010年6月30日水曜日

時代をメクルめく [ゆめみたか]

出来事が多くてパタパタしていたある日の夕刻に原宿でドキュメンタリー映画の試写会がありました。
伊勢真一監督の[ゆめみたか]は、1935年生まれの田川律(たがわりつ)というヘンなおじさんの飄々の日々を淡々と記録しています。鼻歌のリズムで世の中を闊歩する田川律はこの三十年怒ったことがないそうです。仲間たちにワイルドな手料理をふるまい、せっせと毛糸の編み物をし、舞台監督の仕事もズンズンこなします。どういうイキサツだかわかりませんが、小さなライブハウスや野外ステージで熱唱するのですが大胆な素人っぷりです。どういう人たちだかわかりませんが、観客は無性に喜んでいます。60年代ヒッピーの思想が未だに残響しているようだ、というようなことを田川律は呟きます。社会を茶化した替え歌もプンプン飛び出します。田川律は世代による時代感覚の違いを気にしているようでした。伊勢真一監督は1949年生まれです。映画の感想を書いているボクは1960年生まれです。世代の時代感覚が角突き合わせます。ゴチゴチとぶつかったりカッシと抱き合ったりします。映画体験は面白いものです。ピンクのセーターを着てよく笑うヘンなおじさんのお気楽生活風景を観せてもらってボクは元気になりました。元気は世代と時代を超えるのです。世代による時代感覚の違いなんて、あまり気にしなくてイイよ、ということを、この映画は語ってくれていたようです。
映画を見終わって、原宿から南青山までテケテケ歩いて、パートナーと落ち合って夕食。ピザとカルボナーラを食べました。蜂蜜をかけて食べるピザでした。

2010年6月29日火曜日

エイガの小説 [かもめ食堂]

小説[かもめ食堂](群ようこ/幻冬舎)は「本書は初めて映画のために書き下ろした作品」と(著者プロフィールの欄に)書いてあります。映画のために書き下ろした作品とはなんぞやという疑問は湧きますが別にいいのです。インターネットなどで調べれば裏話やいきさつもある程度はわかるのでしょうが別にいいのです。小説として読んでみました。(映画を観ているボクが読みますと)映画のストーリーをなぞっているような感覚になります。カットやシーンが頭の中に浮かび動き始めます。やはりサチエはフィンランド人に(執拗に)おにぎりを勧めていました。採録のシナリオではありませんから細部が違っていたり詳しく説明されていたり、観たことのない章立てもあります。映画に登場したシーンが小説には無かったりします。そういう分析をしてしまうので、いつもの読書感覚とは違います。軽妙で簡明で聡明で実直で辛辣な文体なのでボクの好きなタイプの小説です。ですが映画と小説のテーマが見事に統一されているので発見的興奮が衰え、読み進めていく意欲は半減します。グイグイ引かれるではなく、ペタペタ押し込みながら読みました。映画の分厚いプログラムを1238円で買ったと思えば充実した代物です。映画は観ずにこの小説だけを読む人もいるでしょうから価値はそれぞれです。群ようこさんという作家に対してネガティブな印象はありません。他の作品も読んでみたいと思います。ボクは映画と小説を連動させたこのほどの商売のシカケに翻弄されただけです。主人公サチエの父親は武道家で、口癖は「人生すべて修行」です。
牧野伊三夫画伯の挿絵は極めてシンプルに小説世界を象徴しながらも独立していました。表紙の[かもめ]は静かにハバタいています

2010年6月28日月曜日

かがやく街 [Helpless]

暑くも寒くも快適でもない昼下がり、高層ビルの裏の「けやき坂」というペラペラな名前の坂道をテケテケと下っていたらそんな気分になって、ツタヤで[Helpless]を借りてきた。1996年に公開された青山真治監督の劇場デビュー作。
何気ない黄ばんだ淡い風景の中から忽然と人間の業が湧いて吹き出す懐かしい残酷が充分に堪能できる快適な映画である。特筆したいのは止血ガーゼのように画面の裏側にまで気がかりが染み込んでいる田村正毅カメラマンの漠然とした映像感覚だ。たどたどしく洗練された無遠慮が実に奥ゆかしい。構図はタテにもヨコにも開放されているのに、幻想に向かうというよりもリアルを一点に固定している。甘美なメルヘンに括らせない尖った覚悟がフィルムの粒子にマブリついてチカチカと明滅した。大切なコトは知らないうちに流れ出してしまうものだから、しっかりと見つめたいのならば一旦流れを堰き止めておいた方がよい。でもコンクリートや鉄のような固い材質でダムをつくるのは無粋だと思う。例えば[Helpless]では、喫茶店の駐車場でバスケットケースの中からウサギのQちゃんが逃げ出した時に、出来事の、流れが、シュっと止まって物語がムクムクとカタチを成して現れるような、日常の異常の柔らかな突起物を見逃さないておく。頭の弱い妹がQちゃんを追ってアタフタしているのにヤクザの兄さんは拳銃を握って震えている。その時、浅野忠信は近距離傍観者だった。無駄の使い方が巧妙だから淺野がだるそうに歩いているだけでも街は無味乾燥になる。無味乾燥な街は淺野だけの街じゃないボクたちの街でもある、というようなことをメリメリと感じながらボクは青山真治監督の(田村正毅カメラマンの)映画を観るのだった。

2010年6月27日日曜日

☆に願いを [下妻物語]

[下妻物語](2004年公開)のような爽快な映画がニッポンにはあります。タランティーノやロバート・ロドリゲスは痛快だけど残酷です。
農村風景の中で若者の性格と生活を描く手法は、かえって都市を意識してしまって尻つぼみになりがちなのですが、[下妻物語]は最後まで力強く疾走しました。特に深田恭子の加速度は宇宙の法則の自由落下です。土屋アンナは燃える太陽として終始コロナを放出し続けました。一直線の畦道が彼女たちの行く末を暗示しているのならば遠くの山並みが微笑みを湛えています。両親や家族が社会的失敗者だとしても多少の嫌悪で許してあげましょう。
今のニッポンには退廃を慈しむ気配があります。ロココの心かもしれません。
ボクは、花壇に雑草を植えて丹念に育てるような普通の人たちがみんなシアワセになってほしいと真剣に願っています。

2010年6月26日土曜日

アカイ希望 [街のあかり]

都市の夜景だけど別に活気があるわけでもない。広い地下道だけど閑散としている。長いエスカレータをゆっくりのぼっていく主人公は広い画面の中で一人だ。制服の青年コイスティネンはビルの警備員だけど仕事にも無気力で仲間とも打ち解けることができない。打ち解けたいと思っているのかどうかもわからない。でも、無気力で孤立した男にだって一寸のタマシイはある(と思ってボクはこの映画を見続けた)。映画[街のあかり](2007年日本公開)はアキ・カウリスマキ監督の(例の)不条理喜劇である。喜劇だけど笑えない(例の)アレである。パブで飲んでいても、まわりの男たちはみんな背が高い。着飾った女からはサゲスマれる。唯一、荒涼たる空地のソーセージ屋台のそっけない女だけが話し相手だった。コイスティネンは起業セミナーに参加してみるが、やっつけの講義で冴えない受講者の集まりだった。オロカモノは黒幕に利用される。美人という設定の色白の女に手玉にとられたコイスティネンは宝石店の暗証番号を教えてしまい、簡単に眠らされて鍵束を盗られる。美人という設定の女は美人ではないが影があって魅力的である。だからコイスティネンは捕まっても口を割らなかった。美人という設定の女をかばって単独犯行を自供して懲役二年を受ける。騙された、と言いたくなかったのかもしれない。コイスティネンの愚かなプライド。「あいつは犬のように忠実でバカで女々しい男さ」これはコイスティネンをまんまと利用した黒幕が言った無感情なセリフだ
優雅な暮らしのマフィアっぽい黒幕の部屋の壁は赤かった。コイスティネンのくたびれ愛車も赤いクーペだ。空瓶に投げ込まれた赤いカーネーションは何度も出てくる。アキ・カウリスマキの色への気遣いは尋常ではない。衣装にも小物にも遠景にも色的神経が行き届いている。ガチャリと決まった完璧な構図はアキの堅牢な意志を示している。
刑務所では静かな時間が流れる。コイスティネンは黙って考えていた。出所して皿洗いを始めるが、黒幕に前科をチクられて即刻クビになる。やり直しの人生もウマク行かない。黒幕にナイフを向けるが返り討ちに会う。リンチの末に波止場に投げ出されたコイスティネンにそっと手をさしのべるのはソーセージ屋台の女だった。最後はこの女しかいないだろうなという登場の仕方だったので納得はいく。コイスティネンは女の柔らかな手を握り返して、その手のアップで映画は終わる。
ラジカルな情景描写は硬くて冷たくて強ばっているけど既視感がある。今は昔のようで斬新で懐かしくて流れ続けていく。コイスティネン、恋してね。

2010年6月25日金曜日

成功の性交 [人のセックスを笑うな]

ただならぬ覚悟というものを感じたし、山崎ナオコーラの原作小説もさっそく読んでみようと思わせた。
ポッカリと空の面積が大きい景色はモノオモイを起こしやすいからアート的を志向する場合などは適した構図だと思う。
井口奈己監督の[人のセックスを笑うな](2008年公開)のセックスは性交そのものではなくて恋心を表している。ペチャペチャと音を立てていつまでもキスを続けるのをじっと見ているボクの感情は羨ましさだった。最近ああいうペチャペチャ音を立てたキスをしていないなと感慨に耽る。
群馬の桐生の中途半端な農村風景は日本の典型だと思うし、ウソっぽい美術大学の授業にもちゃんと出席する訓練が社会生活なのだと思う。些細なエピソードかテーマをズキュンと突いてしまう繊細で大胆な手法を実践した作品のようだ。いわゆる長マワシの撮影方法もナチュラルというより即興の滑稽が人間関係の距離を意識させた。ださださのダッフルコートをこれ見よがしに着ているし、野暮ったいマフラーを毎日巻いているし、「寒い寒い」と(あえて)台詞で言うし、冬という季節を強調したからキッパリとした緊張感が作品の全体に漲っていた。それは製作スタッフたちの、丁寧で細やかな目配りが充分に行き届いていることの表れのように感じられて(感じの良さが)強く印象に残る。ことごとくいやらしくないのだ。
失敗を怖れる当然の心境は多くの新人作品から感じられることだが、井口奈己監督の[人のセックスを笑うな]から感じられる心境は成功を怖れている。あながち成功など望まぬ方がよいのかもしれないという覚悟が隠しきれずに漏れだしていた、と思う。開き直りのススメでもあるかな。

2010年6月24日木曜日

貧乏人はアワテない [過去のない男]

ゴトゴト揺れる夜汽車の通路に、焦げ茶色の皮コートを着た中年の男が立っている。アキ・カウリスマキ監督の映画だからフィンランド人だと思うが蟹江敬三に似ている。イカツイ顔だが情けなくて幸が薄そうである。映画[過去のない男](2003年公開)は、都会に出てきた(蟹江敬三に似た)男が夜の公演で黒い革ジャンの暴漢グループに襲われて記憶喪失になるという始まり方だ。カウリスマキ調はフラットな照明と最小限の演技、おだやかな状況説明を特徴としている。地味だけど統一された色彩感覚は観ればわかる。話すべきことがなければ話さないという普通の生活感覚は厳密に守られている。不運は誰のセイでもない、そういうもんなんだ、という常民の常識がベースになっているからだと思う。血だらけで駅のトイレに倒れ込めば死体だと通報されるし、救急病院でも死んだ方が本人のためだと医者は言う。でも包帯グルグルの(蟹江敬三に似た)男はパキンと立ち上がった。曲がった鼻も自分でヒネリ直して波止場でもう一度倒れ直した。錆びたコンテナに暮らす波止場の家族に介抱されて、(蟹江敬三に似た)男は救われるが自分の名前も思い出せない。典型的な記憶喪失だ。自分の名前が思い出せないと就職もできないし銀行口座も作れない。名前のない人間は(それだけで)不審者なのであった。ナンダカンダあって救世軍の中年女職員イルマと恋仲になってブルースを聴きながら見つめ合って終わる映画なんだけども最高である。波止場の警備員はケチな野郎だけどイヌを連れているし、情けないイヌなのに名前がハンニバルという、ジュークボックスを拾えば無口な電気工事人が直してくれるし、救世軍の楽団はロックをやる。海辺に芋を植えれば芽が出て収穫があるのだった。助けてくれたコンテナの親父に芋を半分やれば満面の笑みの下町情緒だし、夜汽車の食堂車ではクレージーケンバンドの「ハワイの夜」が哀切に流れていた。さびしさのモチぺーションと無感動なヨロコビがスガスガしくて、行き過ぎが止まらない装飾過多な潮流に堰を設けて(アキ・カウリスマキ監督は)踏ん張っているのだった。ボクも一緒に踏ん張りたいと思う。(動く彫刻と呼ばれる能楽師のような)孤高の貧乏人たちは画面の外の遠くをジット見つめている。

アシタの様子 [蜘蛛巣城]

愛馬が暴れて手がつけられない様子を見て、城主は我が身に起こる不吉を感じた。これは黒澤明監督の[蜘蛛巣城](1957年公開)の冒頭エピソード。
ストーリーを語るときに伏線が重要な役目を果たすのは前兆の存在が定着しているからだと思う。出来事は唐突に起こるのではなくて事前に予兆が表れている。予兆を少しずつ察知しながら観客はストーリーを楽しむ。または人生を楽しむ。
だから天気予報も重要だ。雨の予報でテロが中止になったこともあるらしいし、明日の天気で気分は変わる。株価も動く。
虫の知らせとは洒落た呼び名を付けたものだと思う。小さな虫が重要な知らせを伝えてくれる。この虫は腹の虫のように小さすぎて目には見えない。目に見えないほどの小さな虫が大切な働きをする。虫の知らせは往々にして肉親の死を予告するけど、おかげで心の準備が整う。ありがたいことだ。
諸行は無常だけど宇宙の法則はもっとデカイ。
ある老チェリストは言った。「美しい音楽はあらかじめ宇宙に存在しているのです。私たちはそれを探しているのです。」と。スベテの音楽は既に書き出されている。小さな人間たちはその中から選択をする。
数学の定理も発明するとは言わない。発見すると言う。ゼロも印度で発見された。既に存在している事柄を時間をかけて少しずつ発見していくのだ。それが人間の楽しみなのだろう。
明日は吉祥寺のデパートに人形劇を観に行く予定。

2010年6月23日水曜日

カルハズミな鼠 [黒澤明の五本]

TSUTAYAが半額セールをやっていたので黒澤明作品をいっぺんに五本借りてしまいました。レンタル期間は一週間なので大丈夫だろうと思ったのです。年代順に並べると[白痴] [生きものの記録] [蜘蛛巣城] [隠し砦の三悪人] [椿三十郎]です。なかなかオツなラインナップだと思います。案の定、返却前日にあわてて五本を立て続けに観ました。
五本をまとめて観て感じたことがあります。みんな同じ特殊なニオイがしました。何でしょうか、しばらくわかりませんでした。
TSUTAYAに返却しての帰り道、ポンと気がつきました。B級映画のニオイです。徹底的にペタを追求する、あの一途でがむしゃらな、例えばB級ホラーの傑作[エドウッド](ティム・バートン監督)のような、脇目を振らないしたたかなストーリーテリングと、たいしたことのないエピソードでも恥ずかしげなく徹底的に大袈裟に描く態度です。
実はクロサワ作品はスペシャルB級だったのです。ボクは真面目に評価しています。たぶん昼メロの原型もクロサワ作品だと思います。スピルバーグもルーカスもコッポラも大作をつくりますがB級です。大ヒットするB級映画です。
さて、B級映画とは何でしょう。ボクは無責任な発言をします。B級映画の定義を知りません。ましてやA級映画を観たことがありません。
映画スベテがB級なのだとしたらボクは納得します。人情モノはB級が似合うんです。映画の基本は人情でしょう。違いますか。落語だって歌舞伎だってそうでしょう、違いますか。
そのものズバリ[人情紙風船]という山中貞雄監督の映画がありました。これが映画だ、これが日本映画だ、と胸を張って語ることが出来るボクの大好きな作品です。クロサワとはだいぶ路線が違いますがね。
TSUTAYAからの帰り道に露天の焼鳥屋を通ります。いつものお兄ちゃんがいつもの笑顔でヒョイヒョイと手際よく焼いています。買わないけれど、お兄ちゃんの顔を見て安心します。

テイタラクが邸宅へ行った [舟越桂 夏の邸宅]

彫刻家舟越桂の展覧会[夏の邸宅](2008年開催)を見た。東京都庭園美術館はアールデコ装飾の邸宅がそっくりギャラリーになっている。邸宅というのはかつて人が息をして生活していた空間のことだ。今は伽藍としているリビングやバスルームや書庫にフナコシの作品は過去の気配に包まれて現在を誇示していた。
まずは、筋肉質で撫で肩の両性具有スフィンクスがタップリとした乳房を露わにしたまま冷ややかなまなざしでボクを出迎えてくれる。作品のそれぞれには詩的なタイトルが付けられていて訪問客の想像物語を喚起しする。遠くをしっかりと見つめるためにノウウと首を伸ばす木彫のヒタイは知的に広くて、鼻筋はスッキリと頑固に通り抜け、頬の翳りは反骨を示している。コンと尖ったクチビルには特別な感情が宿っていた。人格の固まりが古い洋館の部屋部屋にいるのだ。恐怖よりも畏怖を感じながら廊下を歩き階段をのぼる。笑わない人格たちと次々に対面していくと毎日意味もなくヘナヘナと笑っている自分がケナゲ以下に思えてくる。時に小首をかしげて思考すること、立ち止まったまま動かないこと、静かであること、の、重さを知る。挫折したピノッキオを哀れんではいけない。堂々と挫折をさらけ出しているその態度を讃えるべきだ。でも、よく見ればピノッキオはただ立ったまま眠っていたのだった。側頭葉から生えている角も自慢げな乳房も平常なペニスも個人の尊厳とかプライドを表しているのかと思ってみたが、もっと動物的な官能のシンボルだとやがて気づく。実直なエロスを語りたくても語る言葉を持たないボクにとってフナコシの世界は至福の海だった。

2010年6月22日火曜日

ヒーローの笑顔 [チェ Che]

熱帯のジャングルに分け入って、ひたすら歩くというチェ・ゲバラの革命は論理より肉体だった。
ボクの知っているスティーブンという名の監督の中で一番好きなスティーブン・ソダーバーグの[チェ 28歳の革命/39歳別れの手紙](2009年公開)は粘膜に触れる。
スティーブンの作品は[セックスと嘘とビデオテープ][ソラリス][カフカ]も孤高感がボクの好みだ。友達は一人いれば充分だという毅然とした態度のこと。
ジャングルの革命は、必要なときにだけ笑うチェの笑顔によって同士がシュワシュワと増えていく。すでにボクも同士だ。強い人の笑顔は素敵なのだった。ジャングルは深い森だから精霊が宿っている。死者の声に導かれてチェは歩み続ける。森の中で生と死の境界は曖昧だ。だからチェの革命はリアリズムを超えて無意識の領域に踏み込んでいる。果てしない世界だ。

イヌ好きの方々へ [ポチの告白]

ズコッと記憶に刺さるラストシーンだった、高橋玄監督の[ポチの告白](2006年公開)
昨今のフワフワ映画とは一線を画すゴツゴツとした心理劇。
まっとうな社会人になるための正しい作法を教えてくれる啓蒙映画である。
このタイプの作品は意外と少ない。観といた方がイイ。

[おくりびと]におくる。

善良でわかりやすいから泣きやすい。
観客みんなが同じところで泣ける。
非のうちどころがないです。
こういう作品はホメておくにかぎるです。
それがオトナというものです。
[おくりびと]は2008年公開でした。賞ももらいました。
でもこれって映画かな。

月に願いを [ホノカアボーイ]

ほのかな光に色はなく、間合いをはかるも実体がない。
[ホノカアボーイ](2009年公開 真田敦監督)の未熟は社会現象である。
観客の心の中にある歴然としたイメージを信じてほしいが、語り部たるオトナがいない。

2010年6月21日月曜日

仮面のマナザシ [ウォッチメン]

時代の気分をボカリンと殴り倒してクニッと踏んづけてくれるザック・スナイダー監督の[ウォッチメン](2009年公開)はアートだった。それは悲しい快楽に溺れる人間の経歴を示すケダモノどものモノローグ。「この世をつくったのは神ではない、人間だ」とケダモノの日記には書かれている。神は人間のことなどそうは気にしていないそうだ。騒然の超C級シネマ。読まずにわかるアメリカンコミックの骨頂。地獄の炎を美しいと感じる感性がヒトにはある。原罪に挑む作品はアートと呼ばれる。

現実の夜だから夢を見る [スラムドッグ$ミリオネア]

インドというよりスラムというよりクイズショウというよりドッグ、犬の映画だったダニー・ボイル監督の[スラムドッグ$ミリオネア](2009年公開)。しょせん人間は社会の犬なんだ、ご主人様にあらがうことは出来ない。だからせいぜい可愛がってもらいなさい、との、適切なメッセージを発信した喝采の超B級シネマ。モンタージュという映画の武器には威力がある。希望というスパイスも効いている。

メガシラからコトバジリまで [ムービーのこと]

映画もTVもDVDも静止画の連続だ。ひとコマひとコマは止まっている。パラパラと続けて見せられるから目の錯覚で動いているように感じる。モーガン・フリーマンの微笑みも国会中継も静止した写真の集まりに過ぎない。つまり動いている映像信号というものは存在しないのだ。映写機もテレビモニターも静止画を連続上映しているだけ。それを動画と呼んでいる。子供の頃に幻灯機や走馬燈で原理を習っただろう、あれだ。ボクが気になるのは目の錯覚の方じゃない。[動きは記録できない]ということの方。これは時刻と時間の関係に似ている。時刻は指定できるが時間そのものを取り出してハイッと示すことは出来ない。1時間と言ったって分や秒の単位の集まりとして捉えているに過ぎない。だからいまのところ[動き]を記録する装置はない。これは面白い。だから最近は写真機でも動画が撮れる。

The Reader [愛を読む人]

読むオトコがいて聞くオンナがいる。この設定だけで映画は成立する。物語を読むオトコ、物語を聞くオンナ。二人のイマジネーションがひとつになれば官能の楽園だ。
でも、それは本当の世界ではない。閉じこもった小さな部屋の中だけの出来事だ。本当の世界には法律もあるし道徳もあるし他者のエゴイズムも平然とまとわりついてくる。だから、映画も社会を描く。現実社会の中にオンナとオトコを放り込んで成り行きを見つめた。
スティーヴン・ダルドリー監督の[愛を読む人](2009年公開)の原題は[The Reader]である。「愛を」という語句は付いていない。[読む人]である。何を読む人なのか、それは観客の判断にゆだねられる。その方がいい、とボクは思う。冷徹なストーリーのこの映画にボクは(いわゆる)愛を感じない。(いわゆる)愛をテーマにした映画ではない。本当の世界を生きるための作法が客観的に提示される。[社会からの仕打ち]がテーマだった。

アタラシイ勲章 [グラン・トリノ]

今度はザラザラと色あせたインディーズフィルム調の画質だったクリント・イーストウッド監督の[グラン・トリノ](2009年公開)は「強さ」について考察している。腕力がワンワンと物を言ったあの頃は過ぎ去ってしまったけれども今だって何かが強くなければ生きていけない。だけど何が強ければいいのかさっぱりワカラナイと日々常々ボクは思っていた。そんなところへ持ってきて[グラン・トリノ]公開だからクリントはやってくれるぜ。高校生の時に池袋の文芸座で初めて[荒野の用心棒]を観たときにジャストタイミングに肝を抜かれたズゴズゴ感を思い出す。そうなんだよそういう感じのことなんだよボクのモヤモヤは、よくぞやってくれましたという高校生のボクに刺さったあの時のスゴスゴ感のことである。言葉を換えて言ってみると「怒りの矛先」を教えてもらってニゴリ水が見事に飲み込めた快感なのだ。理性と野性はチャーハンになって同じ皿の上に乗っているから腹が減ったら一気呵成に食べてしまえばいいんだけれども作法が難しいと思っていたんだ。でもこのシネマを観ればそれがわかる。身を挺して食べればよろしい。何気ない日常風景のつれづれにおいて身を挺して食べればよろしい。さすればプライドが立つ。これは特別なハナシではない。クリントがあらためて囁いてくれた美しく生きるための「強さの秘訣」だ。彼は世代を超えて同時代に生きている。シネマの言葉に耳を傾けよう。

ならばもう一度 [2001年宇宙の旅]

リバイバル上映ってコトバを最近聞かないね。
ボクが初めてスタンリー・キューブリック監督の[2001年宇宙の旅]を観たのは、今思えばリバイバル上映だった。初公開は1968年だからボクはまだ八歳だったのだ。(70ミリという大型スクリーンの上映だったそうだよ) 
どう思いますかミナサン。[2001年宇宙の旅]って40年前の映画なんですよ。ボクは大好きな映画だからDVDで買ってヒョコヒョコ頻繁に観ているけど古くないなあ、今でもスタイリッシュで斬新で思慮深くて不思議だなあ。
ウィキペディアによるとリバイバル公開は10年後の1978年だったらしい。ボクが十八歳の時。そうそう、たしか高校三年くらいの時だったと思う。当時は埼玉県の志木市というトコロに住んでいたから、東武東上線に乗って池袋で乗り換えて黄色い山手線で新宿まで出て映画を観ていた。映画はついでに観るモノではなく、その日の行動の大目標だった。映画館に向かう道のりでもうシネマ気分に浸っていた。[夕陽のガンマン]も[フレンチ・コネクション]も[小さな恋のメロディ]もそうやって観た。当時の劇場は入れ替え制ではなかったから、面白いと思えば席を取っておいて何回でも観ることができた。[2001年宇宙の旅]もボクはその日の最終回まで繰り返し観たと思う。[宇宙戦艦ヤマト]もそうやって観たのを覚えている。
ウィキペディアにこんなエピソードも載っていた。キューブリック監督は企画当初、手塚治虫さんに美術担当を依頼したらしい。でも異常なる忙しさで仕事をしていた手塚治虫さんは申し出を断られたそうだ。これは表向きの話だから実際の経緯はわからない。でも作品のスケールが感じられて面白いエピソードだ。
どうして最近はリバイバル上映をしなくなったのだろう。レンタルDVDの影響はあると思うけど、時代が変わって再評価されるとか、次の世代に新たにアピールするとか、いろんな効果があって思わぬ現象が起きたりるよねきっと。[2001年宇宙の旅]は予定していた600万ドルの予算を大幅に超えて1050万ドルになってしまったらしくて、これをリバイバル上映を繰り返すことでやっと回収したらしい。アマゾンドットコムのロングテール収益と似ている。一度に大ヒットをとばさなくてもジワジワと時間をかけて収益を上げるという商売の方法。これはいいよね、10年20年30年40年かけて作品を味わってもらえるなんてステキだね。懐古趣味っていうのは思い出して懐かしんで楽しむんだけど、リバイバルは更に新しい価値観(表現の質)を生み出す可能性だと思うな。リメイクはまた別のハナシ。

ペアでワンセット [天使と悪魔]

予告編ではミステリーアクションだったけど本編を観たらヒューマンサイコドラマだったロン・ハワード監督の[天使と悪魔](2009年公開)。
[ダ・ヴィンチ・コード]の続編という触れ込みだったけど、今回はダ・ヴィンチもモナリザも出てこない。大学教授役のトム・ハンクスが主役ということで前作と繋がっている。オドレイ・トトゥも登場しない。(残念) 
欧米には秘密結社という組織があるんだね。よく知らないボクたち(ニッポン人)には秘密結社といわれても、少年探偵団とか科学忍者隊とかアパッチ野球軍とかトンチンカンな連想しかできない。でも、映画の冒頭でトム・ハンクス教授がスゴク手短に秘密結社ガイダンスをしてくれるのでストーリーにはついて行ける。それに、今回のテーマが謎の秘密結社にあるのではないからなのだ。思わせぶりな象形文字とか無駄な予告殺人も出てくるけど、それらは「アッソウ」という程度に観流しておいてよいヨ。トップシーンの加速器実験室で発生する反物質も神の素粒子と呼ばれるけど、これは伏線的要素だから、原理が理解できなくても平気なのだ。余談だけど、ボク個人的には[小林・益川理論の証明](立花隆/朝日新聞出版)は読んでみたい。ノーベル物理学賞の受賞で世に知られた小林先生と益川先生の研究によって、何もないところに物質が忽然と現れるという現象が証明されたらしいのだ。「何もないところに物質が忽然と現れるよ」と昔から言っていたのは神だよね。「光あれ」とか言って全宇宙を創造したとよく売れている本にも書いてあるらしい。そんなこんなで、この反物質というのが映画の中で神の素粒子と呼ばれている。で、最新物理研究室の加速器チューブをものすごい勢いで突進していく素粒子的主観移動のトップシーンから始まるという映画の仕掛けは、音楽も荘厳でノッケからドォーと世界観に飲まれるという点で巧妙な出来なんだ。五角形の星のシンボルマークに意味を持たせながら謎を解いていくストーリーと、新ローマ教皇選出の場面がパラレルして心理ドラマを仕立てているけど、これはこれ見よがしな技巧的必要悪という感じ。 ハリウッド映画特有の表現手法だから別に批判はしないし映像表現のお作法として勉強になる。前置きが長くなっちゃったけど、それよりも今回の作品のテーマは「科学と宗教について考える」なんだよ。ガリレオ裁判の話もエピソードとしてピヨっと出てくるけど、科学の急激な進歩は人間社会に幸福をもたらすのか、という大きな課題が投げかけられちゃうんだ。直接言及してないけど、だぶん科学力による原子爆弾の発明も示唆しているね。できちゃえば(殺人兵器としてでも)使っちゃうのが人間の愚かさだから、人間ってそういうもんだから、科学の進歩は急がずノンビリやりなさいというのがカトリックの態度なのだと、登場する枢機卿は言う。ここらあたりがポイントなのだね。題名の[天使と悪魔]とも呼応してくるでしょ。ちなみに反物質には必ず対なる物質が(宇宙のどこかに)いて、反物質とペアの物質が(偶然にも)出会うと消滅してしまうんだって。忽然と現れた物質だけど、また忽然と消えることもある、ということ。いいねえ、こういう話、意味深だねえ。さあ、キーワードが並んだぞ。
[反物質vs物質] [科学vs宗教] [天使vs悪魔] 。
これが、この映画が提示する考えるべき課題というわけだ。2時間18分を1時間50分くらいに感じさせる軽妙なストーリーテリングで神妙なテーマを描いてくれたぞ。さあ、みんなで考えよう。
そういえば、東洋には陰陽五行説っていうのがあるね。

死んじゃあいけない [風のかたち]

インサートカットに主張がある映画監督、伊勢真一さんの新作ドキュメンタリーを試写会で観てきたよ。
インサートカットというのは挿入場面のこと。シーンとシーンを橋渡しするための風景描写であったり、ストーリーに割り込んでイメージを喚起させるためにも使う。握りしめられた手紙のアップなんてのもインサートカットだね。デビット・リンチのような特異な監督になると本筋のカットとインサートカットの区別がなくなっちゃうんだ。夢幻的な作品世界にマナーは要らないとも言えるね。伊勢真一監督のインサートも心象風景だったり超現実だったりしてカッチリ収まらない浮遊感が小気味よいよ。
その伊勢真一監督の新作[風のかたち]には、[小児ガンと仲間たちの10年]というサブタイトルが付いているから、概要は察することが出来るね。でも人間の推測がいかに限定的であるかということも思い知らされるよ。ある小児科の先生の活動記録でもあるんだけど、医学のお話ではないんだ。先生はまずお遍路姿で登場するし俳句を詠んだりキャンプファイヤーで泣いたりするよ。治療中の小児ガンの子供たちに囲まれて、先生はとてもウレシそうなんだ。悲しい映画ではないんだよ。子供たちにとってのガン治療はとても厳しい現実だということも映画は伝えてくれる。でも、子供たちのまなざしは輝いているね。ウンウンと何度も何度も頷いてオシャベリを聞いてくれる仲間たちがいるからね。照れて黙っていてもそっと肩を触ってくれる大人の人もそばにいてくれるしね。テレビでは伝えることが出来ない大切なテーマを、この映画は描いているんだ。医学的でも道徳的でも経済的でもない、大切なテーマがあるということがテーマだね。
子供の病気を治すのは誰だろうって、どうすればいいんだろうって、考えてみたことありますか、ボクはなかったし、考え方がわからなかった。病気を治すのは医学だけではないらしいよ。
映画は人生のインサートカットだ、と叫んでおくぞ。

brother spring, [重力ピエロ]

(これは去年の話です)六月にはいってそろそろ梅雨入りなのかしらと空を見上げる今日この頃。
きのうは森淳一監督の[重力ピエロ]を観たよ。ホントウに春が二階から落ちてきたよ。びっくりしたねえ。
原作の伊坂幸太郎さんは「低温のロックンロールを描きたかった」らしい。パンフレットにそう書いてある。さすがに文章家だねウマイ言い方をするね。映画もその通りの印象だったよ。低温のロックンロール。観ているうちに静かに興奮するよ。映画館のシートに座っていながら腹筋に力がはいるよ。知らないうちに歯を食い縛っていたよ。たぶん複雑な感情が肉体にアラヌ指令を出すんだろうね。映画館の中でボクの肉体は質量を失ったよ。そのように感じられたよ。
家に帰って、さっそくボクはパートナーに映画の話をするね。パートナーとはもう十五年くらい一緒に暮らしている。懸命に[重力ピエロ](2009年公開)の説明をしているボクの姿をマムマムと笑いながらパートナーは眺めるよ。そして「ワタシも観たい」と言うよ。ウレシイね。週末には二人で有楽町のシネカノンに行くよ。
ストーリーはシンプルなんだ。普通の家族の肖像だね。日常の生活風景と言ってもいいよ。そこがいいんだね、普通がいいんだね。普通の母さんと普通の父さんと普通の兄弟のイトナミの様子。自動車がロボットに変身したり右足にマシンガンを埋め込んだりはしないよ。学校に桜が咲いたり雪道でスタックしたりという誰でも経験する出来事がエピソードの入り口なんだ。とても身近なオハナシなんだよ。そこがいいんだね。そして、日常の中に、どこからか風が吹いてきて、波が立つよ。波って境界面に起こる現象なんだ。海では、水と空気の境界面に波が起こるね。性質が違うモノが接すると波が立つということだよ。普通の家族の普通の生活のなかに性質の違う風が吹き込んだ場合にはどんな波が立つのだろう。例えばこんな感じ、というオハナシなんだ。普通で身近だから肌に刺さるよ。痛いよ。ツボに決まって気が巡るよ。なんだかわからなくなって涙が出るよ。前世を思い出すかもしれないよ。
なんたって、ホントウに春が二階から落ちてくるんだからね。

LIFE=WORKS=PROJECTS [クリストとジャンヌ=クロード展]

六本木には美術館がイクツもある。国立新美術館やサントリー美術館、AXISギャラリーや森美術館や21_21 DESIGN SIGHTなど。古典や前衛や商業デザインや分類できない表現など、いろんな展覧会があって、多彩なジャンルのアートに出会うことができる。(ボクはこの街がだんだん好きになってきている)
[クリストとジャンヌ=クロード展]は 21_21 DESIGN SIGHT で開催された素敵な展覧会。一応言っておくと 21_21 DESIGN SIGHT は、東京ミッドタウンにある美術館でデザインの視点からアートを紹介している。設計は安藤忠雄で、むき出しコンクリートの箱に傾斜のある一枚板の屋根が乗っかっていて、建物の印象はスッキリしている。 
クリスト&ジャンヌ・クロード (Christ and Jeanne Claude) は夫婦の名前だ。二人は1935年6月13日、同じ年の同じ月の同じ日に生まれた。同じ誕生日の夫婦は、二人でひとつの作品をつくりあげている。でもクリスト&ジャンヌ・クロードの作品のスケールは美術館には入りきらない。何十年もの準備期間を費やして、パリのポン・ヌフ橋やドイツの歴史的建造物を「丸ごとフンワリと布でくるんだりする」のが二人のヤリ方なのだ。日本でも茨城県の谷筋に高さ6メートルもある青い傘を1340本も連ねて景観を作りあげた。このとき同時にカリフォルニアの丘陵では黄色い傘が1760本、巨大キノコが群生したかの如く発生した。[アンブレラ]という作品だ。他にもマイアミの[囲まれた島々]やNYセントラルパークの[ゲート]という自然や構造物と一体となった景観作品を手がけている。二人の作品はとにかくスケールがでかい。美術館の展示室に持ち込める代物ではないのだった。だからギャラリー空間には写真とドローイングが展示されているが、これだけでは二人の作品世界の醍醐味は伝わらない。でも大丈夫。ドキュメンタリー映画6本を観ることが出来る。というよりも、ボクの印象では、ドキュメンタリー映画の上映会場に写真とイメージデッサンも展示してあるという様相だ。LIFE=WORKS=PROJECTS という展覧会のタイトルが示すとおり、クリスト&ジャンヌ・クロードの表現は物質的なオブジェを見せることではなく製作活動そのものをアートとして社会に提示している。だから、この展覧会も展示物がアートなのではなくて、展覧会を六本木で開催して人々が観に来て何か感じてオシャベリして帰りにどこかで食事して明日からまた仕事や日常に戻ってもまだアートは続くという気持ちになってくるという仕掛けなのだった。
クリスト&ジャンヌ・クロードが石を投げ込むと波紋が広がる。政治家や役人の正体が暴かれ、庶民の純粋が明らかになる。ドキュメンタリーにはそういうことも映っている。
クリスト&ジャンヌ・クロードのアートは人生を楽しむ方法なのだと思う。夫婦ゲンカも絵になるのだった。

2010年6月20日日曜日

ユメは3Dかな [アリス イン ワンダーランド]

[不思議の国のアリス]は[おむすびころりん]と似ている。白い小さな動物を追いかけていると木の根方の穴に落っこちて別世界に入り込んでしまう。[アリス]はウサギで、[おむすびころりん]はネズミだ。だから[おむすびころりん]は[ネズミ浄土]とも呼ばれる。その別世界は楽園なのだけれど勝手が違いすぎて、やがて元の世界に帰りたくなる。「ああ、ナンダカンダ言っても、やっぱり現実の世界の方がいいな」というような啓蒙的な結末は後から誰かが付け足したモノだと思う。元々はマッドでクレイジーな物語だった筈だ。あの世とこの世の彼岸をヒョイッと飛び越えてしまうところに物語の妙味があるのだ。
ディム・バートン監督の映画[アリス イン ワンダーランド]は存分にマッドでクレイジーな映画だった。キチンと残酷だしユーモアは正統で、理屈っぽくないし正義漢も登場しない。欲望とワガママも魅力なのだ。ボクはその正直な世界観を充分に堪能した。今ハヤリの3D上映だったけど、別に3D上映じゃなくてもいいと思う。あの野暮ったくて重たいメガネ型装置を2時間かけているのはシンドイし頭がクラクラしてくる。なによりもスクリーンが暗く見えるのは問題だ。細部の描写も曖昧になる。ハヤリは長く続かないだろう。もちろんジョニー・デップは最高さ。

月のミチカケ [ウルフマン]

ベニチオ・デル・トロは男でもシビレル艶のある俳優だ。満月の夜は狼男にナル。映画[ウルフマン](2010年公開)は獣と人間に境界などないのだと主張する。そう言われればそうだと思う。獣のような人間とか人間的な獣ってイル。ベニチオ・デル・トロはその両方を演じた。演じたというよりナッタ。狼男にナッタ。ちなみに映画の中の役柄も俳優である。アンソニー・ホプキンスも出てくる。狼男の父親。最初のセリフは「おかえり息子よ」である。狼男の血族デル・トロとホプキンス、強烈な体臭を放つ父親と息子は、そりゃ対決するだろう。父親と息子とはそういうモノだ。獣だか人間だかわからないモノ同士の決闘は満月の夜に繰り返されている、今でも。

ココロノヤマイ [シャッターアイランド]


大好きな映画監督マーティン・スコセッシのイメージワーク全開な新作[シャッターアイランド]のテーマは贖罪だとボクは見た。社会の裏側にはシカケがあって何やらがガチャガチャとウゴメイテいるらしいけれどよくわからない。胡蝶のユメのように、これは夢の中の出来事かもしれないということを認識する現実が頑強なシステムというやつなのかもしれない。人が誰も本当ことを言わないのは何が本当かわからないということよりも、わかっていても言ってよいかどうかの判断がつかないからだと思う。本当のことを言うということはとても恐ろしいことなのだと大きな人たちに教えられた記憶があるようなないような。ひとまずクスリは飲まない方がよさそうだ。タバコも止めるべきだろう。その理由はこの映画を観ればワカル。突然に絶海の孤島に嵐が来たりて運命が変わるが、研ぎ澄まされた精神のヤイバにシカケの断片が映し出されたと思ったらスグに黒幕に覆われてしまった。ボクたちはマーティンにシカケられたが、マーティンも誰かにシカケられている。今日から出来事ひとつひとつが伏線に思えてしまう。今日から毎日がミステリーだ。所詮映画はトリックワークだと呟いても解決にならない。そういえばニッポンも立派な島国(シャッターアイランド)だな。

レイチェルは生きている [ブレードランナー]

リドリー・スコット監督の[ブレードランナー]は1982年公開だからもう28年前の作品だ。オールド香港をイメージしたという酸性雨降りしきる近未来都市では大型スクリーンが宙に浮いていて[強力わかもと]の野外CMは白塗りの芸者が錠剤をポリポリ囓っていた。ボクはとても驚いたし新しい映画が登場したと思った。未来世界が賑やかな廃墟として描かれていて退廃と混沌に生命観があった。歴然とした階級社会だけどみんなそれなりに生きている悪くない世界だ(とボクは感じた)。レプリカントは反発するけどレプリカント自身も完全解決を望んでいたワケじゃない。反発して見せただけだった、無邪気な子供のように。レプリカントは自分を人間だと信じているか信じたいと思っている。レプリカントは人造人間だから思い出がない。他人の思い出情報を入力されたり証拠資料としての家族写真なんかを持たされる。でも、いくらその写真を見つめてもレプリカントにはしっくりこない、人間にだってしっくりこないことはたくさんある。悲しいときに人間は泣く。そういえばレプリカントも涙ぐんでいた。ブレードランナーとはレプリカントを追跡する捜査官のこと。ハリソン・フォードは追跡しすぎて同化してしまった。

ハリウッドのエド・ウッド [エド・ウッド]

エド・ウッドは史上最低の映画監督と呼ばれた男だ。恋人からも「こんな映画をつくるなんて人生の無駄よ」と言われてしまう。でも映画[エド・ウッド]は史上最低の映画ではない。魅力的な映画だ。史上最低の映画監督を主人公にして魅力的な映画を撮ったのはティム・バートン監督。史上最低の映画監督をチャーミングに演じたのはジョニー・デップ。史上最高の組み合わせだと言おう。ジョニー・デップだから駄目男がチャーミングに見える。でもそれだけの映画だ。駄目男がチャーミングに見えるというだけの映画。世の駄目男たちに見て欲しい映画。ボクは何度も観た。

セックスと本当とビデオテープ [セックスと嘘とビデオテープ]

オシャベリは楽しい。止められなくなる。オシャベリは楽しい。相手によるけど。スティーブン・ソダーバーグ監督の[セックスと嘘とビデオテープ]はまずその題名がイイ。名は体を表している。まずは名前からと問われて独白が始まる。セックスの話をする。ビデオで撮る。ビデオで撮られる。オシャベリを続ける。日常生活は嘘でイッパイだからビデオの中で本当の話をする。本当の話をしているつもりになる。本当の話を聞いているつもりになる。気持ちがスッキリする。でもそれは一時的なことだ。頭痛薬で頭痛は治らない。一時的に痛みが止まるだけだ。飲み続けているとやがて頭痛持ちになる。嘘と本当の見分けはツカナイし。

卵のママで [エイリアン]

最初に[エイリアン]を観たときもガガッと驚いた。1979年公開だった。H・R・ギーガーデザインのクリーチャーはお下劣でエロティックで突拍子もなかった。宇宙空間のイメージは11年前の[2001年宇宙の旅](1968年公開)を越えられなかったけど、あからさまなパクリデザインがかえってイサギヨカッた。正統なるB級映画のやり方である。ツッコミドコロの的を絞る。それに2年前の[スターウォーズ](1977年公開)のように気取っていない。戦いに哲学的な理由なんていらない、条件反射的な生体反応のエイリアン世界が快感だった。リドリー・スコット監督による[ブレード・ランナー]前の仕事である。宇宙船の中でも平気で煙草を吸わせちゃうリドリーの演出根性が特にスバラシイ。宇宙船といっても貨物船のクルーなので沖仲仕(港湾作業員)的な荒々しさが欲しかったのだと思う。野性味のある性格ヅケに成功している。地球外生物と知りながら(エイリアンを)アッサリと船内に入れてしまう愚かさにも納得がいくのだ。乗組員の一人が実は監視ロボットでした、皆さん気がつきませんでしたね、という都合のよいシコミにも腹は立たない。エイリアン自身の目的はシンプルだった。地球植民地化でも宇宙制覇でもない、タマゴを産み残したいだけ。そう言ってくれれば(リプリーはキミを)殺さなかったかもしれない。

シバラクの海へ [デッド・マン DEAD MAN]

死んだ子鹿を抱きしめて眠った夜がとても幸福だった[DEAD MAN]は最後に小舟で流される。補陀落に向かったと思われる。思えばずっとあの世へ向かう旅だった[デッド・マン DEAD MAN]の森の徘徊。ジム・ジャームッシュ監督は西部劇をモノクロームで撮った。(1995年公開) カメラマンはロビー・ミュラー。ヴィム・ヴェンダース監督の[パリ・テキサス]を撮った男、ラース・フォントリアー監督の[ダンサー・イン・ザ・ダーク]を撮った男。ボクの大好きなカメラマン(もちろん会ったことはない)。ある詩人へのオマージュ作品だということだが映画そのものが詩の味わいになっている。セリフが肌にシミコムのだ。「銃はオマエの舌だ」と呟いたのは森で出会った太ったネイティブアメリカンだった。淡々と人を殺し続けたのは殺されないためだったジョニー・デップの華奢な身体はいつも半分スケテいた。存在感より欠落感の役者なのだな。

ツメタイ血 [カポーティ]

殺人犯が憎まれる。アタリマエだ。どうして殺人犯は憎まれるのか。人を殺したからだ。ナゼ人を殺したのか。それはワカラナイ。ナゼ殺したのかわからないのに憎まれるのか。そうだ。そうか。
映画[カポーティ](2005年公開 べネット・ミラー監督 主演フィリップ・シーモア・ホフマン)は殺人事件の実録小説を書く作家の執筆風景である。作家は殺人現場を見に行った。刑務所で殺人犯と会った。殺人犯と語り合った。殺人犯は死刑になった。作家は死刑の執行に立ち会った。小説を書いた。ベストセラーになった。作家はアルコール中毒になる。以降発表作はない。作家は故トルーマン・カポーティである。

成るシスト [マルコヴィッチの穴]

映画[マルコヴィッチの穴](1999年公開)はそのタイトルに惹かれて観た。ミュージックビデオで名をあげたスパイク・ジョーンズ監督のシネマ第一作は不思議な設定を凡庸に描いていた。高度なエフェクトも斬新なモンタージュも燃えるようなラブロマンスも反骨の社会テーマも無い。ただストーリーがトントンと運ばれていく。原題は[Being John Malkovich]。「マルコヴィッチに成る」というニュアンスだろうか。小さなドアを開けて穴蔵に入っていくと俳優ジョン・マルコヴィッチの脳内に侵入し、マルコヴィッチの目から視界を眺め、マルコヴィッチの言動を制御することができる。つまり「マルコヴィッチに成る」ことができる「穴」にまつわる物語なのだ。オトナに成る、とか、ウルトラセブンに成る、というように、マルコヴィッチに成る。「でも成るってどういうことだろう」というようなことを考えるのが好きな人には向いている映画だ。マルコヴィッチ本人も気にナルらしく、マルコヴィッチもマルコヴィッチに成ってみた。成ってみたら驚いた。やはりこのシーンが一番記憶に残る。この映画のシンボルに成っている。そういえば俳優ジョン・マルコヴィッチはクリント・イーストウッド監督の[チェンジリング](2008年公開)に牧師の役で出ていた。マルコヴィッチに成ったままだったな。

ソラに隠されている事 [シェルタリング・スカイ]

経済的安定の情緒不安定は都市生活者から生きるヨロコビを奪ってしまう。「空の向こうは闇である」と原作者のポール・ボウルスは言った。映画[シェルタリング・スカイ](1990年公開)はサハラ砂漠を舞台に欧米富裕層の怠惰を耽美に描いていて、音楽も坂本龍一だし撮影もヴィットリオ・ストラーロだし、ボクはヘンな気持ちを起こしたのだった。ベルナルド・ベルトリッチ監督は[ラストエンペラー]で時代的見地から見た小さな人間たちのアイラシイ奮闘を描いたけど[シェルタリング・スカイ]でも人間の様子は滑稽だった。トラベラーの夫婦は関係の修復を望んでいるように見せても本気ではない。夫(ジョン・マルコヴィッチ)は腸チフスにかかってアッサリと死んでしまう。妻(デブラ・ウィンガー)は徘徊中にキャラバンに拾われて砂漠の民に身を委ね精神を放棄する。砂粒の混じった黄色い風が真横に吹き付ける起伏の地平線に真っ青な月だけが冷たく睨んでいた。でも砂漠の民は空を仰いだりしない。自分の手足の方が大切なのだ。地球は闇にツツマレテイル。

群衆のコドク [タクシードライバー]

街はブレている、流れている。言葉は行き場を失ってガスのように漂っている。人は笑っていても泣いている。せつないサックスが聞こえてくる。ボクが映画[タクシードライバー](1976年公開)を観たのは17歳の時だっだ。マーチン・スコセッシ監督もロバート・デニーロも、もちろん(12歳の)ジョディ・フォスターのことも知らなかった。ベトナム戦争のことだってよく知らなかったから(高校生のボクは)ビックリした。映画ってスゴイと思った。何がスゴイのかウマク説明できなかった。説明できなくてもヨイと思った。(今だってできない) 高校生のボクは、世の中にはドウニモナラナイコトがあるんだということを知った。ドウニカナルもんだということも知った。ためになる映画だったのだ。ニッポンの(埼玉の)高校生にとって、こんな(血みどろの)暴力シーンが身のまわりに起こることはない。だけどボクは共鳴した。環境設定がまるで違うのに、ボクの気持ちを(ボクのために)描いた映画だと思った。

相似形の時間 [ディア・ハンター]

アコースティックギターのあまりにも甘い調べがプロローグから涙を誘う。運命といってしまえばそれまでだけど人生はママナラナイから、悲しみの予感をこんな風に(朴訥に)示すなんてマイケル・チミノ監督はタダモノではない。映画[ディア・ハンター](1979年公開)では戦争も日常のヒトコマだった。悲惨だし不条理だし非人道的だけど戦争はアル。ワタシたちたちにはどうすることもできないの、人生にはイイこともあるしワルイこともあるのよ、という意味の小さな微笑みをリンダ(メリル・ストリープ)は浮かべた。まあイッパイやりながらオシャベリでもしよう、ニックに乾杯だと杯を上げたのはマイケル(ロバート・デ・ニーロ)。ニックはベトナムから帰らなかった親友。クリストファー・ウォーケンが無口な青年ニックを演じた。ニックはこの映画のシンボルだった。マイケル・チミノは出来事のひとつひとつをトップリと時間をかけて示す。説明しているのではなくて植え付けているからだ。やがて芽が出て穂が揺れる。映画[ディア・ハンター]はナイーブを奨励し警戒していた。

イカレたイカリ [地獄の黙示録]

どういう精神状態でこの映画を撮ったのだろう。何が言いたいのだろう。映画[地獄の黙示録](1980年公開)を観た二十歳のボクは得体の知れない魔物に出会ってしまってウロタエたのだった。サイゴンのホテルのベッドのある部屋で酔っぱらって鏡を殴り血だらけになった兵士に隠密司令が下る。そして戦場のジャングルの河をただひたすら遡上するクレイジーな旅が始まった。壮絶で馬鹿馬鹿しい常軌を逸した場面が次々に平然と登場してボクはメンクラッた。これはただの反戦モノではない。では何か。ワカラナイ。まったくワカラナイ。?の土砂降りだった。河の上流のジャングルの奥の古代遺跡のような悪魔的なユートピアをボクは否定できなかった。独善と残虐が支配するこのユートピアはたぶん踏み絵なのだろう。ボクは踏み絵を踏むことができなかった。ただ感心して眺めていた。魅入られていたと言ってもいい。これが映画のチカラだ。2001年に公開された特別完全版は53分追加されて202分になっていた。四十歳になったボクはフランシス・フォード・コッポラにもう一度殴られた。

チェック柄のテーブルでは [コーヒー&シガレッツ]

ちょっと一服って何気ない光景だけど特別な時間だと思う。お茶の時間に交わされるトリトメのない言葉の群れは書記官が書き留めることもなく大概スグに忘れてしまうけど大切な時間だとみんな感じていて、だから世界中で習慣として定着している。ちょっとひと息入れてオシャベリをするのはとても楽しいヒトトキだ。ジム・ジャームッシュ監督の[コーヒー&シガレッツ](2005年公開)はコーヒー(または紅茶)を飲みながら特に煙草を吸いながらオシャベリする二人(または三人)の様子を漫然と眺める映画である。11の場面がフワリフワリとそよ風のように入れ替わる構成で、それぞれに脈絡(つながり)はない。オムニバスとか短編集といった味わいで楽しめるようになっいる。詩集に近いかもしれない。会話の内容もマチマチで一貫性がないけどユーモアのセンスがキラキラ光っているから、ボクはニタニタ笑いながら最後まで見続けた。役者の顔ぶれと演技力による格別の表現がこの映画の特徴だけど(観ればわかるから)詳しく説明するべき要素ではない。そういえば全編モノクロームだったなと見終わってから思った。

トライポッドによって [第三の男]

オープンテラスのカフェなどで足が一本浮いているテーブルがある。プカプカと揺れて珈琲がこぼれてイライラする。紙ナプキンを畳んで押し込めて対処したりする。ということは、このテーブルは既に三本の足で自立していたのだな。テーブルは三本の足で支えられて立っていられるのだな。考えてみればそんなに不思議なことでもない。まあそうだなと思える。ボクが気になるのは、じゃあどうしてほとんどのテーブルは四本足なのだろうかということ。四本目の足はよけいモノなのではないか、蛇足ではないかと感じちゃう。カメラをささえる道具は三本足の三脚だ。三本の足で名作をたくさん撮ってきた優秀な道具である。映画[第三の男]も名作のホマレ高い。ニッポンでは1952年公開ということだからボクはまだ生まれていない。ボクは高校生の頃に(たぶん)池袋の文芸座(低料金で再映する名画座と呼ばれていた劇場)でオーソン・ウェルズ主演の[第三の男](キャロル・リード監督)を観た。池袋の文芸座はネズミが暗躍する劇場だった。[第三の男]のストーリーは、やはり(第一。第二よりも)第三の男がカナメだが第三の男であるオーソン・ウェルズがなかなか登場しない。登場しても暗闇の中でネチャと笑うばかり。(観覧車の中で会話をするデイシーンがあるけどあまり印象的ではない)亡命中の美女(アリダ・ヴァリ)を中点にした三角関係と殺人事件によってエンターテイメントをもり立てるけど、映画のテーマは別にある。それは「第三の男の欠損」である。第三の男(オーソン・ウェルズ)の存在感よりも、返って「どうしてアイツが画面に出てこないんだ」と気にさせる非存在感による問題意識の喚起だった。足が浮いたままでプカプカ揺れているテーブルをそのままにしておくのだ。不安定の実在を示して見せた。

陰翳礼賛 [市民ケーン]

1941年のアメリカ映画だが(戦争をはさんで)ニッポンで劇場公開されたのは1966年だった[市民ケーン]はオーソン・ウェルズの作品だ。製作監督脚本主演が当時24際のオーソン・ウェルズである。ボクはいつどこで観たのか忘れてしまっているけどファーストインプレッション(最初に観たときのドヨメキ)を覚えている。とにかく一貫して息苦しい映像だった。了見が狭くて窮屈だということではなくて、逆に奔放な時系列と技巧的な撮影によってテーマの奥行きは深くてイマジネイションの触発度は高かった。息苦しいのはリアリティの純度のせいだと思う。野心的で傲慢で甘ったれなケーンの人生は(特別だけど)一般的なのだ。ケーンの(破滅的で波瀾万丈な)人生ストーリーは、普通の人の普通の生活を劇用にデフォルメしたに過ぎない。普通の人だって野心的で傲慢で甘ったれなんだ。なによりボク自身の内面を見透かされたような気がして、心の闇に手を突っ込まれて大事にしまっておいたモノを引っ張り出されて午後の教室の黒板にビチャっと投げつけられたような気がしたからセツナくて息苦しかったのだ。「希望的であろうとする絶望」をこんなに直裁にボクに伝えてくるヒトはいなかった。闇にヒカリをあててもそこには闇しかない。

戦争気分 [ M*A*S*H ]

銃声のない戦争映画があった。そもそも敵国の兵士が登場しない戦争映画、ロバート・アルトマン監督の[M*A*S*H](1970年公開)は野戦病院を舞台にした(ボクの好きな)反骨パロディだった。20世紀FOXの作品なのに、勇猛果敢なヒーローが活躍して国威発揚を意図する戦争アクションというハリウッドの映画スタイルそのものに噛みついている。テント張りの兵舎や手術室は雑然と散らかっていて道路はいつもヌカるんでいる。白衣や軍服姿もヨレヨレである。酒に溺れナースを押し倒す。規律は破戒されて従軍神父も堕ちていく。野戦病院の医師や看護婦たちは正気を保つために狂気に走ったのだった。なんだこの世界は、ボクは[M*A*S*H]の破天荒に無垢なるヒューマニズムを観た。首から血が噴き出したり、ノコギリで腕を切り落としたり、内臓をコネクリマワシたり、手術室の様子は厳格にリアルある。オペの最中、医師たちはジョークを飛ばし合い卑猥な会話を延々とづけているといった現実主義な表現のハシリだったのだ。(通常でも外科医は集中力を保つために軽妙なオシャベリをしながらオペを行う) ロバート・アルトマン監督は言う。「野戦病院そのものが低俗である。負傷兵を治療してまた戦場へ送り出す、こんなに低俗な行為はない。映画は現実を写したに過ぎない」と。

縁もタケナワ [ショートカッツ]

短編集を一気に読了したら頭の中で話がマゼコゼになっているのでひとつひとつの話を切り離して思い出そうとするがウマクいかず結局一本の小説として記憶の引出しにしまってしまったような映画だったがその映画のタイトルは[ショートカッツ]である。ロバート・アルトマン監督で1994年公開。(一見)関わりのない人たちの日常エピソードが同時進行するいわゆる群像劇だけどアルトマン式なので登場人物が身近に感じる。男は無邪気だけどオロカだし、女はオロカだけど無邪気なのだ。みんな何かに悩んでいるけど悩みのタネが庶民的で返って痛みを実感する。(一見)関わりないのない人たちの様子がランダムに構成されていくけど、実は[関わり]があって構成にも[根拠]がありそうだ。「ナチュラルなのに意味ありげ」こそがアルトマン式だとボクは思う。朝が来て子供が騒いで昼になってカラカラと些細な出来事が起きて夜になって酒飲んで愚痴をこぼして寝る、基本はその繰り返しなのにドラマチックである。ヘリコプターの空中散布と大きな地震に意味はなくてストーリーに影響しないのに短編小説のひとつひとつを一冊にまとめる綴じ紐になっている。日常の無常(うつろい)がイトオカシなのだ。「どうせみんなバカなんだ、楽しもうぜ人生を」というのがアルトマンのメッセージ。これぞシネマの神髄だ。

オトナは知っている [かいじゅうたちのいるところ]

「メルヘンは残酷だ」と言ったのはたしかミヒャエル・エンデだったと思う。メルヘンは世界をアリノママに伝える物語だから安易なパーピーエンドでは済まされないのだ。映画[かいじゅうたちのいるところ](2010年公開)は(そういう意味で)メルヘンだと思う。スパイク・ジョーンズ監督には少年の意識がある。映画は少年の意識で描かれている。[マルコヴィッチの穴]では(オトナ社会を覗き見る)脳内目線を設定したスパイク・ジョーンズが今度は少年意識の純粋に挑戦した。「かいじゅう」は「怪獣」ではない。とてもナイーブな存在である。「かいじゅう」は少年マックスの内面が生み出した多重人格のようでもある(そうでもないようでもある)。敏感で壊れやすい精神がナマの喜怒哀楽を放出する「かいじゅう」に対して少年マックスは勇気を出して対峙する。少年マックスは「かいじゅう」の気持ちがよくわかったし「かいじゅう」も少年マックスの気持ちがよくわった。 ママにだってわかってもらえない少年のサミシサを「かいじゅう」たちは共感してくれる。この島は楽園なのか、いや違う。孤島で暮らす「かいじゅう」たちのサミシサは絶対的なモノだった。無垢なる少年のタマシイに着ぐるみをかぶせた「かいじゅう」たちはオトナになることを拒絶しているから精神の成長がない。「かいじゅう」たちは永遠なる少年(少女)だった。孤島は決して楽園にはなれず癇癪持ちのキャロルが嘆き続ける特別なエリアなのだ。それでもそれなりに「かいじゅう」たちと楽しく遊んでいた少年マックスだが、この夢は長く続かなかった。(おもちゃの)王冠を脱いで少年はオウチニカエル決意をする。少し成長したマックスだった。夢の楽園もそれほどハッピーではなかった。家に帰ると疲れたママのやさしい笑顔が待っていた。

男ディズム [ギャンブラー]

腕利きシェフの料理のように腕利き監督がつくった映画にはコクと香りがある。良質な映画をたくさん食べるとカラダによいと思う。シネマは血となり肉となるのだ。生きる糧にもなるぞ。中には盛りつけ上手なマガイモノも混じっているから気をつけよう。よく噛んで味わえば(その違いは)ワカルよ。ロバート・アルトマン監督が[M*A*S*H]の次に撮った[ギャンブラー](1972年公開)はオーガニックな西部劇だった。森を切り開き伐採した木材を使って西部の町を再現した。こぢんまりした小さな町だけど教会も飲み屋も売春宿もあって、真ん中に河が流れている。125人の住人役とヤギとロバとイヌとスタッフは再現されたこの町に住み込んで、この特別な町の中だけで一本の映画を撮りあげた。開拓時代の西部の町のリアルな息吹(切迫した生存本能)は猥雑で狡猾で寂寞でとってもシネマチックだ。山頭火のウタのようなザックリ感が魅力のアルトマン式を堪能する。映画スター(ウォーレン・ベイテイとジュリー・クリスティ)もアルトマン式では星としてではなく開拓民として地べたで輝いていたよ。アルトマン監督と(サッカーの)オシム監督はボクの中で同じ引出にしまわれている。

ぼーんとぅびぃわいるど [デニスの訃報]

朝起きてネットを起ち上げたらデニス・ホッパーの訃報が飛び込んできた。生年月日1936年5月17日、没年月日2010年5月29日、享年74。大好きな俳優が死んでしまった。悲しいとか寂しいとかまだ感情は湧いてこない。スグに頭に浮かぶのは[イージー・ライダー]と[地獄の黙示録]と[ブルーベルベット]だ。ボクは[イージー・ライダー]でアメリカを知ったし[地獄の黙示録]で戦争を知ったし[ブルーベルベット]でオンナを知った。映画の中でデニス・ホッパーは(ボクに向かって)とても説得力があった。どんな教師より両親や友達や近所の人たちより真摯な態度で接してくれた。世界は何もかもがズレているという(とても大切な)ことをボクに教えてくれたのはデニス・ホッパーだった。よって今日は喪に服すことにする。

偽装ハッピー [ブルーベルベット]

気のせいかもしれないけどデヴィッド・リンチ監督の文体は太宰治に似ている。陰鬱で退廃だがユーモラスでスタイリッシュだ。思い出しては読み返す。読むたびに印象が変わる。好きというより術中にハマル。久しぶりに観た[ブルーベルベット](1987年公開)もファーストシーンの底抜けの脳天気に自我を飛ばされ、サラッと暗闇帝国に連れて行かれる。意味アリゲだが(ボクは)深く考えない。吸入器を携帯してガスを常用する愛に飢えた裏社会のボスは映画史に残るキャラクター造形だと思う。デニス・ホッパーが演じた。

カーニバルへ [イージー・ライダー]

デニス・ホッパー監督は逃げなかった。「自由を説くことと自由になることは別だ」と(イカレた目つきの)ジャック・ニコルソンに言わせ、精悍な不良ピーター・フォンダと共に本物のマリファナを吸い続けてリアルハイテンションに1200ccのハーレー・ダビッドソンでアメリカ大陸を疾走した映画[イージー・ライダー](1970年公開)は巨大な敵の足の指にザクッと囓りついたまま離さなかった。この態度(根性)こそがロードムービーの理想だとボクは思う。行為が純粋に野蛮だし永遠に途中だからだ。

雛のチキンレース [理由なき反抗]

まだ若かったデニス・ホッパーは(チョイ役だけど)高校生の不良グループとして白くてツヤツヤした顔を見せていた。映画[理由なき反抗](1956年公開)の主演は(伝説のカリスマ)ジェームズ・デイーンだけど、今もう一度観てどうかというと、どうということはない。[理由なき反抗]の中で反抗の理由はチャント説明されていて、それは調度の整った立派な家に暮らす中流家庭の子女のワガママなフラストレーションだった。例えば、父親の気が弱いとか、両親が不仲だとか、(不良たち)本人にとっては深刻な家庭問題なんだろうけど(そこに時代を超える)ズコッとした共感はない。[いちご白書](1970年公開)の開放感や[時計じかけのオレンジ](1972年公開)のような本能的狂気も感じられない。でもジェームズ・デイーンのナルシストぶりは磨き抜かれた化石のように(今でも)輝いている。デニス・ホッパーはこのあとジェームズ・デイーン映画とは対極の方向へ歩き始めた。そこにデニスの[理由なき反抗]をボクは見る。そう彼はワイルド(野蛮)の方向に向かったのだった。

ティーンエイジャーの不快 [エデンの東]

「父親から愛されないからスネて見せる青年の物語」にボクは共感できない。映画[エデンの東](1955年公開)はジェームズ・デイーンのデビュー作でアメリカでもニッポンでもヒットした。主人公キャル(ジェームズ・デイーン)が背中を丸めてうずくまったり、上目遣いで寂しそうに人を見つめる評判のポーズにボクはココロ動かされない。同情を求める甘ったれ根性をウマク表していると思うだけだ。それよりも、関係のない隣人(太った黒人女性)がキャルの無邪気を見て笑い転げたり、素性も知れない貧しい農婦が美形なキャルに(勝手に)嫉妬の目を向けて苛立ったりするインサートカットの方が鋭くボクの気持ちをエグる。この映画には(ストーリーに関わらない)傍観者が印象的に登場するのだ。傍観者とは即ち観客の立場である。映画の中に観客の立場が(違和感なく)混入するのである。これはスゴイと思う。エリア・カザン監督は(こういった)細部表現こそをやりたいがためにこのストーリーを選んだのかもしれない。聖書の逸話をベースに父と息子の葛藤を描くという筋立ては(たぶん当時の欧米では)理屈ぬきに明解だ。だから細部に趣向を凝らすために手間と時間をかけることができる。止まった観覧車から鉄骨づたいに降りてくるとか、玄関先で縄ブランコを大きく揺すりながら相手とぶつかるほどに急接近する会話シーンなど、キャルの不安定な心情を示すアイデアと方法が多彩で楽しめる。「善人とは何か」といった聖書的な話題も挿入されるけど、こういうのは製作資金を工面するために必要な要素なのではないかと思う。そういうスポンサーとか、そういうエピソードがあると安心する観客に向けた接客である。一番の善人として描かれる父親は農園経営者で戦争反対を唱えているのに徴兵の事務仕事も担っているし、生真面目な兄の清純な恋人は実は弟キャルに惹かれていて、兄が出征してしまえばキャルと熱烈に抱き合う。病床の父の最後の言葉は「看護婦が気に入らないから変えてくれ」だった。実はこの映画のテーマは偽善の人間らしさだったのだ。映画中盤でキャルは父に強く言っていた。「もっと話してよ父さん」と。息子は父の本音を知りたかっただけなのだ。

見得をキル [欲望という名の電車]

遊女のような、はだけた着物の中森明菜がカラスのような妖艶な黒髪で [Desire]を歌いあげたのは1986年だった。「まっさかさまに墜ちて Desire 炎のように燃えて Desire」(作詞 阿木曜子 作曲 鈴木キサプロー) Desireには情熱という補足がついて[Desire -情熱-]が正規のタイトルのようだが、Desireで辞書を引けばその言葉のニュアンス(意味)は情熱よりも欲望であることがわかる。歌う明菜のマナザシもそう訴えていた。(ここで)欲望とは何か、もちろん性欲である(とボクは解釈する)。性欲はイノチの源だからとても大切なのだ。映画[欲望という名の電車](1952年公開)も原題は[A Streetcar Named Desire]でDesireという名前の路面電車という意味だ。劇中でも主人公ブランチ(ヴィヴィアン・リー)がDesire 922というネームプレートの路面電車に乗ってニューオリンズのダウンタウンに到着する。欲望という名前の電車に乗ってそのオンナは登場したのだ。麗女ブランチは妹の貧困アパートを訪ねてきたのだけど、対峙する相手は妹の夫のスタンレーでそれはマーロン・ブランドだから彼の怒鳴り声にも彼女の股間はジンジン疼くのだった。三十路に達したミス・ブランチは夫に自殺され農園も抵当に押さえられ教職も追われホウホウノテイでここにやって来たのだが、彼女の心は(既に)病んでいた。エリア・カザン監督は麗女ブランチ(ヴィヴィアン・リー)が少しずつ少しずつ壊れていくサマを映画の見せ場とした。汚れていく純粋を劇的に表現した。対峙するマーロン・ブランドは身なりは汚いが純朴が輝いている。工場労働で汗まみれのたくましい肉体と乱暴だが率直な言動に生きるチカラが漲っていた。(居そうろうの)ミス・ブランチは経済的にも精神的にも追い込まれて墜ちていく。キッチンで興じる男たちのポーカー賭博にもアケッピロゲな隣人の夫婦ゲンカにも覇気があって下町人情の素顔なのに、安物ドレスで身をくねらせるミス・ブランチの「ざあます言葉」は虚飾だった。誰かがこんなセリフを吐いた「欲望の反対は死です」。ミス・ブランチの偽装性欲が映画のテーマだった。