2010年6月20日日曜日

テのうちようがないんだよ [ストーカー]

ガラス窓が震えている家は貧しかった。床板は節くれて濡れている。オトコと妻と不具の娘は望むことをあきらめているようだった。オトコは一般的にオロカである。(だからオンナは嘆く) オトコは(希望を叶えるという噂の特別な空間)ゾーンに期待している。オロカな作家とオロカな科学者の三人連れの(ゾーンへと向かう)寂しいピクニックの様子が映画[ストーカー](1979年公開)である。ソビエト映画だ。アンドレイ・タルコフスキー監督は映画は詩のリズムだと言う。確かに映画は歩幅に合わせてパクパク拍動していた。ゾーンへの案内人をストーカーと呼ぶ。だから案内人である震える家のオトコが主人公ということになるけどオロカトリオは三人とも並列に描かれている。個人というより一般人としての存在だ。普段、意識せずに「私たち」と言うコトがある。そのときの「たち」のような(凡庸な)三人なのだ。オトコたちは何度も振り返りながら目的地ゾーンへと歩いていく。何を気にしているのだろう。カメラだ、カメラがちゃんとついてきているのかを(この登場人物たちは)気にしているのだ。もちろん、この映画はフィクションである。だから登場人物たちが気にしているカメラとは観客の存在ということになる。アンドレイ・タルコフスキー監督が仕掛けたそういう(多重視点な)設定なのだ。このオロカトリオの逡巡と堂々巡りの会話は観客に見せるためのお芝居であって、それはとてもお芝居らしく演じられている。ゾーンのセットも舞台美術のように配置と構図が整いすぎている。(完成された廃墟なのだ) あくまでも虚構の世界であるということを強調している。閉じたフレーム(額縁)を覗き込むような気分で観る映画なのだ。結局オロカトリオはゾーンに侵入することをためらい、直前でへたり込む。ゾーン側から撮った三人の静かなロングショットが象徴的だ。ゾーンの中だけに雨が降ってこのシーンは終わる。最後に、台所の妻がカメラに向かって感想(愚痴)を言う。観客に同意を求めているようでもある。ボクは同意した。不具の娘も特別な方法で意志を示してくれた。(それもボクには)ウレシかった。フレーム(額縁)からはみ出たシーンもある。

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