2013年7月6日土曜日

戦争はやめられない。記録映画[アルマジロ]


評判を聞いて気になっていた作品がDVDになったのでTSUTAYAで借りてきた。
冷えたサイダーを肉厚のガラスコップに注いでごっくんごっくん飲みながらソファに腰を沈めて観はじめたのだが、やがてサイダーには手を伸ばさなくなった。

記録映画[アルマジロ]には身も心も震えた。(2010年カンヌ国際映画祭批評家週間賞グランプリ作品)
「戦争は一度体験すると、やめられなくなる」という衝撃的な事実を突きつけられたからだ。
国際平和活動(PSO)による派兵で、タリバンと闘うアフガニスタン戦線のデンマーク兵士たちは、血みどろの肉弾戦から帰還しても、友や恋人や家族と過ごす平穏な生活を捨てて、また志願して戦地へ戻って行く。
ヤヌス・メッツ監督は言う。「若い兵士たちは緊迫した戦地を懐かしく思い、故郷での毎日に退屈さを募らせているように見えた。まるで中毒ではないか。」
アルマジロとは前線基地の名称である。映画は駐留するデンマーク兵の日常行動に七ヶ月間密着した。四台のカメラを駆使して出来事をひとつひとつ丁寧に記録する。
兵士たちは、夜にはパソコンでポルノビデオを見て仲間とふざけ合う無邪気で平凡な若者たちだ。ルーティンワークのパトロールには退屈を嘆き、味方の負傷報告を聞けば弱気になる。母と電話で話せば感傷的だし、休日には川に飛び込んで大はしゃぎする。
銃撃戦は突然始まった。兵士と同じ目線からカメラは戦況を撮り続ける。目の前を銃弾がかすめていく。敵は何人いるのか、どこから撃って来るのか。わからない。ハイテンションになり不明な言葉を大声で叫ぶ兵士は、狂ったようにマシンガンを撃ちまくる。恐怖に怯えた兵士は目の前の木を撃っていた。敵が潜む塹壕に手榴弾が投げ込まれた。これはフィクションではない、事実なのだ。ニュースフィルムと同じ実況を写した映像なのだ。驚くほど短時間で銃撃戦は終わった。まだアフガニスタンの荒野は明るい。負傷兵は手当を受ける。銃弾が靴にめり込んでいた。重傷者はヘリで運ばれる。テキパキと事後処理が進んでいく。塹壕に折り重なった血まみれの敵の死体をひとつひとつ剥がしていく時には「小男でヨカッタ」と軽いジョークが若い兵士の口をつく。数日後「またやりたいな」と一番ハンサムな兵士が言う。「あの充実感が忘れられない」と平然と言う。戦場は特別な場所だった。戦争が中毒になる。人間の心が壊れてしまう。

映画を観おわって少しだけ残っていた生ぬるい気の抜けたサイダーを飲み干した。強い西日が当たる書斎のカーテンをしゃりっと閉めて、電気もつけずに薄暗いデスクでキーボードを強く叩く。このコメントを書くために。    

2013年5月23日木曜日

カモの洞察 [フランシス・ベーコン展 BACON]


東京国立近代美術館は金曜日の午前中というせいもあってか比較的空いていた。ゴールデンウィークはどうせ混むだろうと思っていたから、休日開けを狙っての行動だったが、どんぴしゃ狙い通りだった。














フランシス・ベーコン展はNHKの[日曜美術館]でも、テレビ東京の[美の巨人たち]でも取り上げられたから、より一層の観客動員だろうと予想したのだ。実際にどれくらいの観客数だったかは知らない。別にそれについて調べてもいない。そこに興味があるわけではないから。
[日曜美術館]では、大江健三郎がリアリズム表現について、文学的に深く熱く語ったし、デビッド・リンチは幻想性について、ゴードン捜査主任(ツイン・ピークスでリンチが演じたFBI係官)の語り口でキビキビと映画的にまくしたてたから、ボクの期待は赤道直下のネズミの尻尾のようにピンと真上を向いたのだ。胸騒ぎの街角だ。


1500円でチケットを買って会場に一歩踏み入れば、そこには四国の山奥の辺境のプリミティブが真面目な顔をして必然を誇っているし、そしてさらに、[ツイン・ピークス]の赤い部屋の小さな男の体臭もムンムンと充満していて、やっぱり逆回転の発音(赤い部屋の小さな男のしゃべり方)がよほどリアルなんだと納得する四角四面の閉鎖空間だった。それは「原因を究明しない」で「結果にも興味を示さない」という、ボクが愛好する世界なのだった。

途中経過の任意の一瞬を切り出したフリーズフレームにこそ物語がある、ということくらいボクにでもわかる。小説を読んで映画をたくさん観ていれば当然の帰結なんだ。それはどうしてなのか、この先どうなるのか、それは読者と観客のイマジネイションが決める問題だ。カタクナな人たちよ、へんな憶測は止めて欲しい。親切な饒舌家は(または饒舌な親切家は)下心があるから注意した方がいいよ。わかりやすさは密の味なんだから。満足げな顔をして「よくわかりました」という人は嘘つきだよ。わかるはずはないんだ。だって元が嘘なんだから。

















箱の中で檻に閉じ込められた権威ある男がバックリと口を大きく開けて叫ぶ。ベーコンの代表的な作品、教皇の肖像だ。檻に閉じ込められて叫ぶ男の絵は一枚だけではない。いろいろある。頂点に立つ者を、こんな風に、いったい誰が檻に閉じ込めたのか。ベーコンである。ベーコンが最高の権威者を檻に閉じ込めてイタブッテいるのである。イタブッテいるベーコンの(嬉々とした)悦楽が伝わって来るではないか。ちびまるこちゃんの退いた表情に表れるタテ線の引用元と思われる、そこだけ土砂降りの雨のようなタテ線が、ここではガクガクと身体全体がブレている様を示す装飾模様として使われている。最高の権威者は完全にブレている。





展示室の角を曲がればゴッホの世界だった。これは模写というべき代物ではない。でも、あきらかにゴッホだ。ゴッホ的だ。ゴッホ的なのにベーコンだ。べちょついた筆遣いや畑の水平線や野武士のような構図は確かにゴッホだが、全然違う。これは南仏アルルの麦の匂いのする健康な陽射しではない。風景ですらない。ギトギトした臓物の皮膚である。ベーコンはゴッホの臓物を描いたのか。決して筋肉ではない、臓器のイメージだ。臓であり腑だ。焼肉屋の開店前の薄暗い店内で手際よく捌く臓物の下拵えの光景だ。気味が悪いが食欲をそそる。大蒜のタレに浸してパクパク食べたら抜群だ。






展示は続く。スフィンクスは人と獣(けもの)の合体だから、そこにベーコンはムラムラとした奥底の本能をくすぐられたのではないかな。四つ足で腹這いになって正面を見据えるポーズには、プライドと屈辱が仲良く乳剤になっている。水と油も根気強くグリグリとかき混ぜれば、渾然一体になって、象牙の表面のような滑らかな薄黄色の光沢の美味しいマヨネーズになるのだよ。プライドと屈辱のマヨネーズ。





ベーコンは問われて応えた。「私は、何をしているのかわからない意識で絵を描いています」と。本人がわからないモノを他人がわかるか、と言ってしまったら1500円の元が取れない。ボクにはわかる気がする、と言えばいい。オイラにゃ獣の血が騒ぐう、るるるる。

ベーコンはこんなことも言っている。「(暴力的な作品だと言われるが)暴力性があるのは現実の世界の方だ」と。そりゃそうだ。「絵画」をいくら挑発しても殴りかかっては来ない。「人」は後ろからそっと忍び寄って、平気な顔をしてバーンと撃つ。


男の頭部を描いた作品がある。恋人の顔らしい。でも、ベロンベロンにひしゃげている。とても苦しそうだ。この男は叫ばない。この苦痛は権威者の悲鳴とは質が違うのだ。質とは何だ。苦痛の性質のことだ。ベーコンはこの男をいたぶってはいない。やさしく見守っている。泣きたいほどに愛しいから、ベーコンは彼と苦痛を共有するのだ。恋人の苦痛が自分に伝わって苦しくてイタタマレナクてたまらない。ついにベーコンはジョージ・ダイアの顔面に撃抜かれたような穴をあけてしまった。こりゃたまらんぜ、ずこっ。痛てっ。

ツイン・ピークスの赤い部屋がある、と思うのは、ボクが今、この絵の前に立っているからだ。1968年から、この絵はこのように存在している。デビッド・リンチの粘膜をネリッと刺し貫いたのはこの絵だ、とボクは言った。リンチファンなら誰が見てもそう言ったと思う。舞台の緞帳のように波打つベルベッドは天井から床までスベテの壁面を覆い尽くして、こちら側にだけ開口部が拓けている。毛足の長い絨毯の上の一脚の椅子にどっかりと乗っている裸の男は起ちあがろうとして腰が砕けている。挫折の部屋だ。いや再起の部屋だ。挫折の部屋だ、いや再起の部屋だ。男にとって不能ほどツライことはない。起たない男。起てない男。



女はブヨブヨの肉の塊になっている。洗濯槽の真ん中で盛り上がる洗剤の泡の塊をシリコンで成形したような、触ってみたくなるブヨブヨには、バッタの腹のような赤味が注している。すごく綺麗だ、そして醜い。

ニッポンの屏風絵のような、三枚の絵が連作を為す[三幅対]は、人の気配を警戒して過度の緊張を強いられた老いたフクロウのような、ぴたっと静止した物語だった。極致的な数字である3の世界。三角形の絶対的な安定と、二元論プラス1のユラギ。3点セットの作品が触発する想像の余地は、モワモワと膨れあがるから、総量が三倍になるとでも言うのか。それとも逆にシュンシュンと縮こまって、1/3に狭められてしまうのか。3コマをストーリーボードに描けば、ストーリーテリングの極意である序破急を示すことも出来る。序破急は、ずずっと静かに始まって、やんやと盛り上がり、すとんとあっさり落ちる完全な物語。能舞台を見ればよくわかる。生と死の境界をやすやすと越えて、霊界から死者がやってくる物語に、序破急は、とても適した構成論なのだ。そしてさらに、視差やアングルを多角化すれば3D感覚にもなる。でも、そんな風に実直な原理解説をしたら、それはベーコンじゃないな。なぜなら、そんな説明では胸の高鳴りが騒がないからだ。重たくてネチョネチョした原始生物が食道から胃に落ちて腸の洞窟をモコモコと巡り行き、肺の胞には匂いのあるガスがいっぱいに充満してくる。なんだこの感触は、という常軌をイッした境地がベーコン世界なんだからさ。不快だけどやめられないゾンビ映画だ。恐怖映画への依存症は霊界と結ばれたいという人間の深層願望と関係があるのだろう。

ボディラインは不規則な曲線の連続なのに人間の身体は美しい。
腰の曲がった長髪の指揮者が汗を飛び散らかしながら、渾身の力を込めて振りまわすタクトの軌跡が描くオーガニックな曲線が心の籠ったボディラインの造形だとボクは思う。静寂から始まって絶頂へ向かうシンフォニーの音符群が女の身体の輪郭をなぞって蠢いているようだ。拍動は骨伝導するとボブディランは言った。(言ってない)

野蛮で残酷で冷血で疑り深くて親切で寂しがり屋なのは誰か。見られたいのに隠してしまう、誉められたいのに憎たらしい。一人だけ少年のままでいたって、友だちはみんな歳を取る。それ故にフランシス・ベーコンは孤独だったのか。

ベーコンの言う「神経模様」とは何だろう。確かにベーコンの作品は神経に障る。いきなり尻の穴をざらついた舌でベロンと舐められたように、ピリピリとした電気信号が幾度も走ってから、くすぐったさとムズ痒さが六頭立ての馬車で土煙を上げて疾走して来る。しばらくのあいだ執拗に舐め続けていたザラついた舌は、次第にムクムクと太く堅くなるのだった。樫の木のバットになるのだった。ボクの尻の穴は張り裂けんばかりにエグラレて、圧倒的に犯される。そりゃ痛いわさ。痛いけれどガマンする。ここがガマンの仕所なのだ、たぶん。下腹に響く樫の木のズンズンとした突き上げのリズムは、心臓の鼓動と息が合う。それは、まことにピッタリと同期するもんだから、なんだか信用していいという気持ちになってくる。だから特別な被害者意識が生じたりはない。それよりも、母胎の記憶を呼び起こして、これ以上ない至高の安寧に身を任せたくなる。思い出すのは、あの真綿の布団である。これ以上の柔らかさはない、あの軽くて暖かい、肌に触れると溶けてしまいそうな、絶頂の、あの布団のことだ。いやまてよ、ボクは心の奥底で(もしかしたら)暴力を望んでいるのかもしれないぞ。だから、その疾しさから自虐を求めて懺悔するのかもしれない。人が言うほどに自分を愛すことなんて実際は出来ないし、人が言うほどに絆が大切だとは正直考えたこともない。困った時に助けてもらいたいだけだ。でも、こんな思考の方法だって俗っぽい社会通念を気にしているが故に陥ってしまう人間の病なのかもしれないな。自分の弱さを直視したくないから、こんなことを言い出すんだろう。それもわかっている。わかっているけどやめらんない。げんなりだね。布団にくるまってフテ寝してしまいたいよ。もちろん、ザラついた舌も樫の木のバットも仮想の出来事だ。イメージのお話だ。だけどね、一度描いてしまったイメージは実体験の記憶と見分けがつかなくなっちゃうんだよ。困ったね。

国立近代美術館は北の丸公園にある。旧江戸城の一角だ。ボクは展覧会場を出ると、初夏のやわらかな陽射しを浴びながら、お池のほとりで、ひとりで弁当をもぐもぐと食べた。水面の反射が一羽の鴨を照らしている。鴨はしばらくボクの食べっぷりを見ていたが、凡庸な存在であることを見切ったらしく、躊躇なく飛び去っていった。ボクは弁当をきれいに平らげた。
(東京国立近代美術館 2013年5月16日)




   


2011年1月24日月曜日

シレンシオ以前 [マルホランド・ドライブ]

金髪のベティはちょっとした映画のオーディションに参加したよ。(裕福な)叔母の紹介だ。プロデューサーと知り合いなんだそうだ。(だからプロデューサーも高齢なんだ)低予算映画だけど、スタッフルームはハリウッドのスタジオの一角にある。ベティにしてみれば憧れの世界。胸をときめかせて出かけて行ったよ。行ってみたら(やっぱり)小さなスタッフルームだったけど、みんな温かく迎えてくれた。低予算映画ならではのアットホーム感だ。高望みをしないホドホド志向がモッタリとした老人ホームのような雰囲気を醸し出している。それだってベティにとってチャンスであることに代わりはない。いきなり主演男優と密着して演技をして見せたよ。キスだってしちゃうし涙も流した。真に迫った本格的な芝居を見せつけてやったよ。そりゃ、拍手喝采さ。でも小さな部屋の低予算映画だから数人の拍手なんだけどね。いいさ、それでも、ベティはやり遂げた満足感でイッパイだった。これが映画スターへの第一歩なんだと思ったはずさ。意気揚々とスタッフルームを出で、廊下を歩いていると話しかけられた。オーディションに同席していたキャスティングマネージャーだ。このおばさんは見るからにやり手だぞ。「あの人たちは、もう終わった人間なの、感覚が古いのよ」とアッサリ言われてしまう。「さあ、いらっしゃい、ヒット間違いなしのメジャーな現場を見せてあげるわ」と、連れて行かれた大きなスタジオでは、セットを組んで本番さながらの規模で主役オーディションが行われていた。スタッフも大人数で見学者もゾロゾロいる。空気も張りつめているし、なんたって華やかなんだ。ディレクターチェアに監督がヘッドホンをかけて座っている。うしろ姿だったけど、声をかけられて振り向いたよ。黒いセルのメガネのアダム・キャシャーだ。ベティとアダム監督はパチンと一瞬目が合ったよ。実はこの邂逅が映画[マルホランド・ドライブ]の中で重要な出来事なんだ。( [マルホランド・ドライブ]には、思わせぶりでも重要じゃない出来事がたくさん登場するから見極めがムズカシイ) 偶然の出会いが人生をガチリと決めてしまうというのは、デビッド・リンチの一貫したテーマだと思う。でも、リンチ式だから、そうそう順当には話は進まないよ。この出来事はこれで途切れて関係ないエピソードがまた表れる。次は泣き女が登場するよ。「みなさんお静かに!」ってね。

2010年8月4日水曜日

ウラオモテのない人 [マルホランド・ドライブ]

地下のカーテンに囲まれた部屋の車イスの小さな男はナニモノだろうか。イヤホンをかけて表社会をリサーチしている。
この部屋には覚えがあるぞ。ツインピークスで小さな男が逆回転で踊っていたあの分厚いカーテンの異様な部屋に似ている。社会には裏があって、誰かがおもしろ半分に(だけどマジメに)操作しているんだろう、そういう部屋である。いわゆる裏社会のさらに深層を示していると思う。だけどホントウはそんなモノはなくて、表も裏もイッショクタになっていて、見分けがつかなくなっているとも思う。だからこそデビッド・リンチは、その混沌を見極めたくて映画をつくるのだろう。表裏一体を感性で分析しているのだ。オモテとウラが象徴化されてランダムに登場するのが映画[マルホランド・ドライブ](2002年日本公開)というわけだ。
田舎町で健全に育ったベティの純真は都会(ハリウッド)の表裏一体に汚されてしまった。自己実現とか夢を叶えるとかいった上昇志向には落とし穴があって、その落とし穴には出口が無くて宇宙の果てまで落ちていく。田舎で平凡に暮らしていればヨカッタのだ、というのがこの映画のひとつのテーマだ、とボクは思う。
飛行機の中で仲良くなった老夫婦も邸宅の管理人の老婦人ココも笑い方が気持ち悪い。おかしいから笑っているのではない、バカにしているのだ。誰をバカにしているのか。映画の中ではベティをだけど、それだけではなさそうだ。もっと不気味に力強く四方八方に嫌味を振りまいている。観客をバカにしているのだぞ。バカにしているという言い方が気に障るとしたら、忠告をしていただいている。リンチはボクたちに忠告をしてくれているのだ。「ボクは好き勝手に映画をつくって楽しそうに見えるかもしれないけど、そうでもないかもしれないよ」というメッセージである、とボクは思う。ハリウッドに続くマルホランド・ドライブという坂道でのクラッシュシーンの炎上がこの映画の冒頭だったということを肝に銘じておこうぜ。
というところで、ちょっと出かける用事があるので、今日はここまで。続くよ。次は黒髪の美女のシャワーシーンからだよ。

2010年8月2日月曜日

泣き女が待ち遠しくて [マルホランド・ドライブ]

さあデビッド・リンチ監督の[マルホランド・ドライブ](2002年日本公開)だよ。どこから手をつけてよいか途方に暮れるな。入り口と出口の見分けがつかないのだよ、この映画。でも、どこから手をつけても許してもらえるだろう。(誰に?)
60年代風のダンスコンテストがファーストシーンだけど、背景はなくてムラサキ一色だ。喝采を浴びるブロンドのベティ(ナオミ・ワッツ)は露出オーバーに輝いている。
次のカットは薄暗い部屋の無人のベッドだけど枕もシーツも乱れているぞ。
さらにシーンが変われば、夜のマルホランド・ドライブの走行主観だ。マルホランド・ドライブとはロス・アンジェルスの街を見渡す丘の坂道。ハリウッドまで続いている道らしい。
黒髪の美女が虚ろなマナザシで高級車の後部座席に座っている。助手席の男に拳銃を向けられて、撃たれるのかと思ったら突然対向車がぶつかってきた。この事故で、黒髪の美女は撃たれずに済んだけど記憶を失くしてしまう。記憶はなくても狙われている切迫感はあるようで、主人が出かけた一軒家にソソッと忍び込み身を潜めた。
この家がベティの(裕福な)叔母の家である。ハイスクールのジルバ大会で優勝したベティは、カナダのオンタリオから映画俳優をメザして上京するのだ。旅行に出る叔母の家にしばらく滞在することにしている。
そのベティの(裕福な)叔母の家に黒髪の美女が(記憶をなくして)忍び込んだのだよ。ここまでが基本的な状況設定だね。
ファミリーレストランでは純朴そうな男が熱心に夢の話をしている。マントを被った黒こげの人物が一瞬デジャブのように現れる。
ホラホラ、リンチらしくなってきたぞ。そういえば最近デジャブを見ていないな。年をとると見なくなるのかな、飛ぶ夢も見なくなったな。
というところで、ちょっと出かける用事があるので、ひとまず今日はここまで。
続くよ。次は地下の、カーテンに囲まれた部屋の、車イスの小さな男のシーンから始めよう。

2010年7月24日土曜日

死ナナイ仕様 [デスプルーフ]

アメリカンな女の子たちの溌剌なオシャベリが、甲高い嬌声の強震な鼓動となって拍を刻む[デスプルーフ](2007年公開)は、言葉が意味を超えて波動だったよ。感情表現のエフェクトとして言葉を乱射するのはタランティーノ監督の得意技だけど、今度は身体的な人間楽器によるコミュニケーション実験だから、声色とビートと肉弾戦がマゼコゼの旋律になって軽快に奏でられるよ。古くて新しい悪魔のささやき感覚だね。登場人物はみんな、馬鹿馬鹿しいほどに正直だから滑稽だし悲しいし美しい。CGなんかじゃないナマの小娘によるスタントアクションの激突カーチェイスは大脳を経由せずに腹部を貫通してダイレクトに肝に刺さる悦楽だよ。ブラボーと叫べばタランティーノはニタリと笑う筈さ。

2010年7月23日金曜日

遠くの声は響いて聞こえる [パラダイス・ナウ]

[パラダイス・ナウ](2007年日本公開)は「パレスチナ人監督ハニ・アブ・アサドがイスラエル人プロデューサーと手を組み、ヨーロッパ各国との共同製作というかたちで作りあげた作品である」と配給ホームページには書いてある。2005年ベルリン国際映画祭で青い天使賞をもらった。
舞台はイスラエルのヨルダン川西岸地区。パレスチナの人々が暮らすエリアだ。主人公のパレスチナ青年は10歳の時に、父が密告者として処刑された。「密告者の罪」とは何か。ニッポンでぽけっと暮らしているボクにはわからない。
成人した青年は(幼なじみの友人と共に)自爆テロの実行者に抜擢される。これは名誉なことらしい 。二人は決行のために目的地であるテルアビブへと向かう。だけど出来事は裏目裏目に展開する。それでなくても切ない道行きなのに、どうしてこんなことが起きちゃうんだということが起こり続ける。筋書き通りには事が運ばないんだ。これがパレスチナという現象なのか。
生まれてこの方、ずっと、抜け出すことのできないパレスチナキャンプでの重圧生活だった彼ら。どんづまりの行き止まりの立ち往生の渇望の淀みの溜まりが、粘りのあるヤルセナサになって肌にまとわりついてくる。
ナニゴトも気の持ちようだなんて誰が言うのだ。そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないじゃないか。今日の次に明日が来ることを疑いながら生きている人々。一万年ってどのくらいの長さかなんてボクにはわからない。愛しい人の呼ぶ声が今の彼らには届かないんだ。なんとかしてほしいけど、なんともならない時間が一万年あったんだ。

2010年7月14日水曜日

やかましいあつかましいうらやましい [プラネット・テラー]

タランティーノと気の合う仲間らしいロバート・ロドリゲス監督の[プラネット・テラー](2007年公開)は、テキサスの泣き虫ゴーゴーガールが片足を失って、色々あって、暴れまくって、メキシコの浜辺で女帝に君臨するまでのオハナシなんだ。あんまり面白くって(筆舌に尽くしがたいほどお下劣だから)詳しいことは書けないよ。だけど、とてもロドリゲスなムービーだから、その線が好きな人にはタマラナイと思う。
特製ソースがヌラヌラ滴る骨付きバーベキューにモワッと下心をそそられちゃうのは、人間はしょせん肉なんだと死んだら喰われちまうんだと、だから精一杯生き延びろよとおっしゃっているロドリゲスの叱咤激励なんだね。
国家権力の底がカポッと抜けていることをちゃんと見抜いていたとはエライですねロドリゲス。それにしてもアメリカの楽観はケタハズレだ。見習いたい。

2010年7月13日火曜日

ウディ・アレンは1935年生まれ [タロットカード殺人事件]

意外と誰とでもすぐ寝ちゃう女子大生がスカーレット・ヨハンソンっていうのどう? 観たくならない? ウディ・アレン監督の[タロットカード殺人事件](2007年公開)のことだよ。
ウディ・アレンといえばボクのオヤジと同じ世代で、[ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう]は、ボクが中学生の時に(たしか)池袋の文芸座で観た。帰り道の池袋西口公園(最近はウェストゲートパークというらしい)で自衛隊に勧誘されたのを覚えている。あっさり断ると勧誘員は「そういう友達がいたら紹介して」と名刺を手渡した。そういう友達はいたけど紹介しなかった。
[ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう]はオムニバスなのだけど、そのうちのひとつの中でウディ・アレンは全身白タイツで黒縁眼鏡をかけて精子の役を演じていた。とんねるずのモジモジ君の原型はこれじゃないかと思う。
[タロットカード殺人事件]の原題は[Scoop]。ジャーナリスト志望の女子大生スカーレット・ヨハンソンが老マジシャンのウディ・アレンを相方に殺人事件の真相を追うという推理コメディなんだ。キッチリとした映画だったよ。寸分の隙もない。これ以上何も排除できないだろうし何も補足しなくてよい。作劇術や演出技法といった手際が鮮やかなんだね。観客の推理(妄想)を軽やかに転がしてくれる。死者から証言を聞くなどというオキテ破りな設定も面白ければそれでいいよね。スカーレットとウディの掛け合い漫才がとにかくオカシイんだ。磨き抜かれた皮肉がピッカピッカに輝いていたよ。

2010年7月12日月曜日

たたかうお兄さん [ボーン三部作]

[ボーン・アイデンティティー](2003年公開)[ボーン・スプレマシー](2005年公開)[ボーン・アルティメイタム」(2007年公開)3部作によって、相互追跡という物語形式が定着したよ。CIAに復讐する元スパイのジェイソン・ボーンと、それならばジェイソン・ボーンの行動をキッチリ探査するCIAの両方に、映画の追跡カメラが貼り付いたからね。
CIAが巨費を投じて育成した知的スナイパー・ジェイソン・ボーンにマッド・デイモンをキャスティングした時点で作品のテイストは決まったんだと思う。ポーンの人柄と境遇に同情できなかったら成立しないでしょう、このシリーズは。ジェイソン・ポーン(マッド・デイモン)のやさしくて切ないマナザシが、諜報員の孤独を示すし、逃げているのか追いかけているのかわからなくなっちゃうストーリー展開は理念なき曖昧社会の全身像をムッチリと映しているね。007のような非情で色欲なスパイ映画はウソっぽいから、隣のお兄さんが実はスゴイ人でしたっていう親近感路線に観客が集うんだね。
失われた記憶を取り戻すという典型的な筋立ては、今ならば自分探しと名付けられて、人生に迷っている(多くの)人々の共感を得るのだろうと思う。でも、自分探しって危険な行為のようだから気をつけてね。ジェイソン・ボーンもそこには充分気をつけているようだったよ。でもハマッちゃったんだ。
ボクはこの三部作を逆順に観た。[アルティメイタム][スプレマシー][アイデンティティ]と三部作を321と見戻ったんだ。クリストファー・ノーラン監督の[メメント]を体験したときのようなクラクラする時間の錯綜感が心地よかったよ。時系列と脳内イメージの混線もボーンシリーズの表現コンセプトだと思うから、こういう見方も(結果的に)正解だったね。
もはや諜報機関だけが情報を占有しているのではない。ボーンなんてグーグル検索で国家組織と対等に立ち向かっちゃうんだ。チカラより機転(センス)が有効だというリアリティ(直感と体験)への信頼がこの映画の好感度だと思うな。アタマとカラダとインターネットで世界は構成されているんだよ。

2010年7月11日日曜日

誰のためにエリーゼのために [エレファント]

どのくらい時間が経てば昔話になるのだろう。きのうの出来事は昔話だろうか。去年はどうだろうか。十年前はどうだろうか。一万年前はどうだろうか。百四十億年前はどうだろうか。
1999年に起きたコロラド州コロンバイン高校銃乱射事件をモチーフにした映画[エレファント](2004年公開)は沈着冷静な映画だった。犯人も被害者も目撃者も、淡々と歩いている。興奮しない。ただ一般的な時間が流れていく。いつも通りの小さな出来事が繰り返される。でも今日は何かが少しだけ違うような気がする。そんな一日だった。
生きている時間を確かめるように生徒たちは校内を歩く。雲が流れる。オシャベリをする。歩く。ピアノが聞こえる。雲が流れる。時間が重なる。歩く。撃つ。撃たれる。倒れる。雲が流れる。ピアノが聞こえる。
カメラは誰かの歩く姿に寄り添ってついていく、校庭を図書館を長い廊下を、ずっとついていく。ガス・ヴァン・サント監督によれば観客が考える時間をつくったという。でもボクは考えなかった。考えないでポケラーと観ていた。
ベートーベンのピアノ曲を弾いているのは無差別殺人の犯人だ。こないだ生まれたばかりの高校生だ。たぶん何も考えないで弾いている。

2010年7月10日土曜日

呼吸する闇 [殯(もがり)の森]

[(もがり)の森]2007年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した作品。河瀬直美監督は10年前にも[萌の朱雀]でカンヌ映画祭新人監督賞を受賞している。両作とも河瀬監督の地元奈良が舞台だ。
[殯(もがり)の森]は、不安定な手持ち撮影や素人っポイ演技だからリアルなのではないな。些細なことを感受する孤独な高齢者を題材にしているから現代的だというのでもないな。奈良の農村の日常風景はそれだけで存分に既視感だし、気持ちの中を風が吹き渡っていくのは凡庸ゆえの無抵抗さだと思う。ボクは安穏と緊迫の混成気分のまま映画を見続けたよ。
深い森だと人は方向を見失う。目的のない時間の中では天国と地獄を同時に体験する。生きていると思えるのは生きているからでしょ、と気の利いた言葉をザワザワ囁くのは森の熊笹だった。転んで割ってしまったスイカの紅い熟れた実の甘い果汁で肌がヌヌッと濡れる。色気が女だ。
人生は(やっぱり)一回キリなのだろうか、転生はあるのだろうか。雨上がりの闇は寒いけど、体温だけがあたたかい。生きているウチにできること。体温が体温をあたためる。
森では懐かしい死者にも出会い、少しの間だけ一緒に踊る。でも、もういいだろう、さあ、帰ろう。陽のあたる大樹を見あげれば安堵する。素手で土を掘れば充実する。天高くヘリコプターが飛んでいく。現実のお出迎えだ。現実の中で人は死ぬ。安らかに悲しむ。たくさん泣けばいいんだ。

2010年7月9日金曜日

ゼンニンなおもて包丁を研ぐ [転々]

うしろ髪をフサッとのばした自称殺人犯の無気力中年が、あてもなく歩きながら告白をする。変形リーゼントの巨頭青年は、態度は悪いがキチンと話を聞いてあげる。珍道中なロードムービー、三木聡監督の[転々](2007年公開)は、別に高級でもない見慣れた材料に塩と胡椒と砂糖を振りかけて味噌を塗りたくって味を濃くしてエイヤっと手荒に盛りつけてさあ召し上がれと出された大皿郷土料理のように、好みにさえ合えばとても美味しくて病みつきになる。みかけほど脂っこくはない。意外と素材は厳選されているようで噛み続けるとふくよかな味わいがお口いっぱいに広がる。
畳で殴られたら意外と痛いとか、時計店の生計を気にしちゃいけないとか、為になる情報も提供してもらえる。
場末のスナックのママは昭和仕立ての立派な木造家屋に暮らしていて小泉今日子である。昔のよしみのうしろ髪殺人犯が三浦友和で、同行の変形リーゼント巨頭青年のオダギリジョーと一緒にママの家に泊めてもらう。ネットリと濃いキャラクターの三人が噛み合わない会話をポカポカと平気で続ける乾いた展開がリアルだ。現実の会話ってほとんど噛み合っていないでしょ。現実の人間関係ってほとんど噛み合っていないでしょ。更に遠縁のぶっ壊れたギャルが闖入して、会話のズレが拡張して摩擦熱が急上昇する。卓袱台的なカオス表現である。
物語が沸騰しそうなところでポキッと終わる[転々]の結末は粋である。イナセである。テヤンデエである。

2010年7月8日木曜日

田園に伏す [腑抜けども、悲しみの愛を見せろ]

[腑抜けども、悲しみの愛を見せろ](2007年公開)ズガッと肝をかち割る刮目のタイトルだねえ。
ニッポンの農村に夏が来た。というノホホンとした情景気分に浸る間もなく、父と母はトラックにひかれてバラバラ死体だったし、兄は黙々と炭を焼きまくるし、兄嫁は鼻歌交じりで呪い人形だし、妹はジット見ているし、ワタシはバスに揺られて眠ってしまう。兄はナガセだし兄嫁はナガサクだし私はサトエリだ。明快なエピソードがCM的なビジュアルでスパスパと小気味よく展開する、いわゆる21世紀ムービーである。
ジャンルは負け犬シネマだけど態度がイサギヨイ。堂々としていて風格がある。こんな映画がニッポンにも登場してくれて、まことにヨロコバしいです。扇風機がぷうんとまわるカットが心に凍みます。夏には夏の物語。庶民には庶民の共感を。

2010年7月7日水曜日

感じる都市 [ TOKYO ! ]

「とうきょうビックリ」と読むんだろうか。
映画TOKYO ! ](2008年公開)は、ミッシェル・ゴンドリー、レオス・カラックス、ポン・ジュノという三人の尖った監督の短編競作だ、いわゆるオムニバス。三話とも舞台は東京。三つ巴、三位一体、三者三様の物語。たくさんの違和感をコックンと可愛く飲み込んだヤブニラミ都市TOKYOの肖像が三ツ目の巨人となって立ちあがる。
ミッシェル・ゴンドリー監督の[インテリア・デザイン]が一話目だ。彼氏との仲がカクカクと噛み合わなくなって自己認識が危うくなってナントあんなものに変身してしまうカワイイ娘は愛車をスクラップにされてもへこたれず、非人間の新しい生活を意外と楽しんでいる。ゴンドリー監督の変身譚はPVでお披露目済みだがモチロン深く進化しているよ。
二話目は不快の帝王とボクだけが呼んでいるレオス・カラックス監督の[メルド]。あいかわらず不快の名作だぜ。そのうえヤマトダマシイを逆なでしやがる見事なお手並みだ。ポンヌフから走り続けてきたのかドゥニ・ラヴァンは「糞ったれ」を掲げて銀座の舗道を構わず突っ走るが、その姿がヤッパリ汚くて気持ち悪くてイカレてる。レオス監督、衰えを知らず1960年生まれだ。
さあ三話目が実は本命、ポン・ジュノ監督の[シェイキング東京]。東京の夏の湿気た暑さがヌメっと肌にまとわりついてくる映像感覚は、ファーストシーンから裏側を剥き出しにする。キチンと整頓された木造家屋の薄暗い部屋に、男が一人秘やかに暮らしている。鮮やかな赤いシャツのピザ屋の娘が配達に来て、ジット見つめるものだから、事件は起こる。ポン・ジュノ監督が東京の現代から引っ張り出した魔物は生々しくて妖艶だ。揺れるのは大地だけではない気持ちだけではない。都市の霊気だった。

2010年7月6日火曜日

白か黒か [龍馬暗殺]

[龍馬暗殺](1974年)は毒々しいモノクロだった。
地殻変動のような幕末の胎動が白と黒の強烈コントラストによって極められている。個人は常に理想と現実の狭間に押し込められて困っちゃうけど、肝心なのは意気なんだよ。意気込みなんだよ。ヌラリと身をかわして緩衝地帯から高みの見物を決め込むヤカラも中にはいるけど、だがしかし、龍馬を描くシネマの立ち振る舞いはどうだ。どうみてもケツをまくった脱藩的映像表現だ。開き直ってモノオジしない。客観的とか歴史的とかヤヤコシイことをキッパリ否定して、物語を主観の制御下においた。破れかぶれの突進力がスゴイ。暗いトコロで殺すから暗殺なんだ。

2010年7月5日月曜日

ホットする石 [キサラギ]

ずっと貸し出し中だった話題の日本映画[キサラギ](2007年公開)をやっと借りてきた。
簡易的な舞台セットとパタパタ演技が深夜ドラマのノリで、低予算を素直に暴露していて高感度バツグン。
C級アイドル[如月(きさらぎ)ユキ]の一周忌に五人の熱烈ファンは場末の雑居ビルのペントハウスに閉じこもった。とにかく追悼のオシャベリに興じる。痔の薬のCMに似ている写真ぽいキッチュな回想シーンも要領がヨイ。ここぞというタイミングに挿入されて娯楽度タカシ。喪服姿の男五人が狭い部屋に閉じこもって延々とグタグタ言い合うワンシチュエーションドラマだけど、[如月ユキ]の死因を推理する展開は探偵モノの様相で、掛け合い漫才というかコントというか会話のテンポにビートが効いているから強引な筋立てもエネルギッシュな作風だと納得する。
五人の熱烈ファンはそれぞれに事情を抱えていて現実社会ではパッとしない連中のようで自分の殻に閉じこもっている。でも誰だって自分の殻の中であがいているのだろうし、理不尽がグイグイと迫ってくることだってそりゃ(みんな)あるだろう。いや理不尽は日常の石ころだ、そこらに平気で転がっている。そんな生活者にとってアイドル[如月ユキ]は天使だった。天使の微笑みだけが生きる糧だった。悲しいけどソレが(とっても)現実な男が五人。それもいいじゃないか、アイドルに夢中になって何が悪いのだ、という背水の熱気が映画に充満してハチキレそうだ。心に穴ボコ空けたまま気力で生きているたくさんの普通の人々が[キサラギ]の切なく燃えるメッセージに感涙していると思う。ボクも泣いた。

2010年7月3日土曜日

対抗見地 [A],[A2]

森達也監督の記録映画 [A] (1997年公開)と [A2] (2001年公開)の連作は、麻原逮捕後のニッポンの社会状況をオウム真理教の内部から観察した作品だ。見地というものを強く意識させる。映画の主体(まなざし)は、残ったオウム信者たちと共に居場所を求めてウロウロと彷徨う。ウロウロと揺れ動く集団に対する風当たりを記録している。今のニッポンには(実は)ウロウロと揺れ動く自由は確保されていないんだ。{A}と{A2}の、この揺れるマナザシ方式は森達也監督の著作 [死刑] (朝日出版社)の取材態度にも感じられる。[死刑の帯文にはこうある。「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」
森監督はオピニオンが硬直したときに起こる恐怖を知っている。
主体が彷徨う映画の方法は、とても恥ずかしいことの筈だ。明け透けに腹を見せちゃうこんなリスクの高いノーガード戦法を使うのは(社会的な)未熟を露呈してしまうことなのだ。一般的な(大人っぽい)国民はガードの仕方をしっかり勉強して上手に立ち回りながら生活している。一般的な落ち着きを装っている。
矢吹丈は現実の社会よりもリングの上の方が居心地がよかった。そしてリングの上で灰になった。
今もう一度、[A]と[A2]を観てごらん。きのうの自分がハズカシイぞ。

2010年7月2日金曜日

あたらしキヨシ [トウキョウソナタ]

まずはカップに注いだ牛乳をレンジで温めて、その上から濃いめの珈琲をドリップで落とす。シナモンパウダーをパフパフふりかければ家庭内カプチーノのできあがり。これをスターバックスのタンブラーに入れて出かける。スターバックスの店内で本など読みながら飲むこともあるし、公園でハトを眺めながらしみじみとススルこともある。しみじみ見ると東京の空は意外とノスタルジックだ。
黒沢清監督の[トウキョウソナタ](2008年公開)はカンヌ映画祭ある視点部門で審査員賞を受賞した。
黒沢清監督というとホラー映画のイメージが強いかもしれないけど、この映画はあたらしいタイプのキヨシ流なので新鮮な気持ちで観た方がよい。あらぬ世界へとフワフワ漂って昇っていってしまいたい気持ちを我慢して、一生懸命こっち側に踏みとどまって痛みに耐えている監督の姿が想像されてイジラシイから、幻想シーンにもボッテリとした重量感がある。これがあたらしいキヨシリアリズムなんだな。
見慣れた私鉄沿線の住宅地がウルトラQの再放送のような既視感だし、家族の会話の言葉の羅列はツンツンとツボをついてくる、そこは現在の痛点だ。会社も学校もハローワークもよその家庭も美しいピアノの先生も、なんだか乖離しちゃっているけど、何から何が乖離しているのかわからない。
多重人格的家庭生活を描いた刺激的映画では豊田利晃監督の[空中庭園]があった。この作品も妻であり母親でありオンナである主役が小泉今日子だった。この配役の符号は印象的だ。映画と映画が繋がっている。
父親には父親の抱える問題があって、長男には長男の次男には次男の問題があるけど、そんなことを言い出したら教師には教師の問題があってピアノの先生にはピアノの先生の問題がある。昔の同級生にも昔の同級生の問題があった。偶然なのか必然なのか押し入ってきた強盗にだって強盗の抱える問題がしっかりあった。おまけにこの強盗は役所広司だから(そりゃ)大問題だ。そしてそのすべての問題を妻であり母親でありオンナである小泉今日子が一手に引き受けることになる。引き受けるだけのフトコロを示すんだ。なぜゆえにコイズミは多重問題をフトコロに包み込んでしまえるのか。乖離的女性だからだと思う。一見バラバラで脈絡のない日常の様々な出来事を女コイズミは家事一般として平然とこなしていた。(女にはこれができるんだ) ちなみに失業中の父親は香川照之。アノゆれる香川だ。心の底に鬼を秘めている香川だ。笑わない美人のピアノ先生は井川遥で、庭に開かれた一軒家の居間で午後の陽射しを浴びながら淡々と子供たちにピアノを教えている。この居間のピアノ教室は、エピソードとエピソードが触れ合う物語の交差点になっていた。意味なく重要な場所ってある。
[トウキョウソナタ]は希望を語らないホームドラマだけどスコッと抜けて爽快だ。

2010年7月1日木曜日

笑う背中 [潜水服は蝶の夢を見る]

最近よく小石につまづく。足が小石の高さ以上にあがっていないからだと思う。腿上げ運動をした方がよいと何かの何かで読んだ。鍛えるというより肉体が衰えていく速度を遅らせるそうだ。つまづいた小石はどれだろうかとしゃがみ込んで探してみても似たような小石がパラパラしていてわからない。目の前の犯人を特定できないんだ。ハガユイ出来事。
ジュリアン・シュナーベル監督の[潜水服は蝶の夢を見る](2008年日本公開)は色々な賞をもらっているけどカンヌでは監督賞をもらった。フランス語でしゃべるフランス映画だ。映画を観るならフランス映画さ。
脳溢血の全身麻痺で言葉がしゃべれなくなった男の主観(脳内)物語。男は雑誌ELLEの編集長ジャン=ドミニク・ボビー。実話なんだよ。ポワポワとかすむ左目の視界が病室のドアや言語療法師や見舞客を見つめる。血管が透けて見えている瞼の裏側の映像もある。麻痺していないのは左目と記憶と想像力だけだと本人が(脳内で)言っていた。身をよじったままの姿勢で固まっているボビーの身体は標本のようだ。なのに、まばたきの合図だけで重厚な自伝を書き上げてしまった。でもこの映画は、不自由な身体なのに不屈の精神でモノゴトを成し遂げたという根性美談ではないよ。(妻ではなく)愛人とのベッドシーンを夢想するし、医師の怠慢な処置には容赦なく(脳内で)毒づく。病室に訪れる見舞客も形式的だったり自分本位だったり無関心だったり色々だ。妻も息子も娘も標本のような父を標本のように眺める。ああなんて正直な人々なのだろうと思う。原作の伝記は読んでいないけれど、こんなに率直な態度で映画化ができるなんてスゴイなとボクは思った。根性美談の方向に持って行かなかったところがエライ、とボクは思う。
病院は海辺にある。窓から吹き込んでアイボリーのカーテンをハラハラと揺らすのは浜風だ。海の見えるテラスで面会してもよい。砂浜に出て子供たちの遊ぶ姿をぼんやり左目で見つめていてもよい。車椅子のボビーが波立つ洋上にポツンと浮かんでいる心象風景は孤立のメタファだった。「さびしい」なんて決して言わないボビーの孤独な戦いがわかる。これが映画だね。
でも彼にはたくさんの思い出があった。豊かな想像力があった。そしてアウトプット装置である動く左目があった。まばたきの合図でアルファベットを指定して単語をつくり文章を綴る。そして物語が出来あがる。原始的な創造のプロセスが披露される。
この映画では主人公の左目が見たモヤモヤのユラユラな映像が大半なんだ。しつこく続く。実験映画かいなと思うほど続く。でもこれは一般娯楽映画だ。そして、やっと見せてくれる客観的な(状況がわかる)映像は社会のありのままの姿だった。醜いし美しいし痛いし痒いし甘いし辛いし好きだし嫌いだった。
小石につまづいても転んだわけではないのでボクはスグに気を取り直す。信号待ちで前に立った娘さんの背中には表情があった。知らないお嬢さんの背中がボクを見て笑っている。ボクは用事もないのに街中を歩く。時々立ち止まって(知らない)娘さんの背中を眺める。楽しい一日の過ごし方だ。

2010年6月30日水曜日

時代をメクルめく [ゆめみたか]

出来事が多くてパタパタしていたある日の夕刻に原宿でドキュメンタリー映画の試写会がありました。
伊勢真一監督の[ゆめみたか]は、1935年生まれの田川律(たがわりつ)というヘンなおじさんの飄々の日々を淡々と記録しています。鼻歌のリズムで世の中を闊歩する田川律はこの三十年怒ったことがないそうです。仲間たちにワイルドな手料理をふるまい、せっせと毛糸の編み物をし、舞台監督の仕事もズンズンこなします。どういうイキサツだかわかりませんが、小さなライブハウスや野外ステージで熱唱するのですが大胆な素人っぷりです。どういう人たちだかわかりませんが、観客は無性に喜んでいます。60年代ヒッピーの思想が未だに残響しているようだ、というようなことを田川律は呟きます。社会を茶化した替え歌もプンプン飛び出します。田川律は世代による時代感覚の違いを気にしているようでした。伊勢真一監督は1949年生まれです。映画の感想を書いているボクは1960年生まれです。世代の時代感覚が角突き合わせます。ゴチゴチとぶつかったりカッシと抱き合ったりします。映画体験は面白いものです。ピンクのセーターを着てよく笑うヘンなおじさんのお気楽生活風景を観せてもらってボクは元気になりました。元気は世代と時代を超えるのです。世代による時代感覚の違いなんて、あまり気にしなくてイイよ、ということを、この映画は語ってくれていたようです。
映画を見終わって、原宿から南青山までテケテケ歩いて、パートナーと落ち合って夕食。ピザとカルボナーラを食べました。蜂蜜をかけて食べるピザでした。

2010年6月29日火曜日

エイガの小説 [かもめ食堂]

小説[かもめ食堂](群ようこ/幻冬舎)は「本書は初めて映画のために書き下ろした作品」と(著者プロフィールの欄に)書いてあります。映画のために書き下ろした作品とはなんぞやという疑問は湧きますが別にいいのです。インターネットなどで調べれば裏話やいきさつもある程度はわかるのでしょうが別にいいのです。小説として読んでみました。(映画を観ているボクが読みますと)映画のストーリーをなぞっているような感覚になります。カットやシーンが頭の中に浮かび動き始めます。やはりサチエはフィンランド人に(執拗に)おにぎりを勧めていました。採録のシナリオではありませんから細部が違っていたり詳しく説明されていたり、観たことのない章立てもあります。映画に登場したシーンが小説には無かったりします。そういう分析をしてしまうので、いつもの読書感覚とは違います。軽妙で簡明で聡明で実直で辛辣な文体なのでボクの好きなタイプの小説です。ですが映画と小説のテーマが見事に統一されているので発見的興奮が衰え、読み進めていく意欲は半減します。グイグイ引かれるではなく、ペタペタ押し込みながら読みました。映画の分厚いプログラムを1238円で買ったと思えば充実した代物です。映画は観ずにこの小説だけを読む人もいるでしょうから価値はそれぞれです。群ようこさんという作家に対してネガティブな印象はありません。他の作品も読んでみたいと思います。ボクは映画と小説を連動させたこのほどの商売のシカケに翻弄されただけです。主人公サチエの父親は武道家で、口癖は「人生すべて修行」です。
牧野伊三夫画伯の挿絵は極めてシンプルに小説世界を象徴しながらも独立していました。表紙の[かもめ]は静かにハバタいています

2010年6月28日月曜日

かがやく街 [Helpless]

暑くも寒くも快適でもない昼下がり、高層ビルの裏の「けやき坂」というペラペラな名前の坂道をテケテケと下っていたらそんな気分になって、ツタヤで[Helpless]を借りてきた。1996年に公開された青山真治監督の劇場デビュー作。
何気ない黄ばんだ淡い風景の中から忽然と人間の業が湧いて吹き出す懐かしい残酷が充分に堪能できる快適な映画である。特筆したいのは止血ガーゼのように画面の裏側にまで気がかりが染み込んでいる田村正毅カメラマンの漠然とした映像感覚だ。たどたどしく洗練された無遠慮が実に奥ゆかしい。構図はタテにもヨコにも開放されているのに、幻想に向かうというよりもリアルを一点に固定している。甘美なメルヘンに括らせない尖った覚悟がフィルムの粒子にマブリついてチカチカと明滅した。大切なコトは知らないうちに流れ出してしまうものだから、しっかりと見つめたいのならば一旦流れを堰き止めておいた方がよい。でもコンクリートや鉄のような固い材質でダムをつくるのは無粋だと思う。例えば[Helpless]では、喫茶店の駐車場でバスケットケースの中からウサギのQちゃんが逃げ出した時に、出来事の、流れが、シュっと止まって物語がムクムクとカタチを成して現れるような、日常の異常の柔らかな突起物を見逃さないておく。頭の弱い妹がQちゃんを追ってアタフタしているのにヤクザの兄さんは拳銃を握って震えている。その時、浅野忠信は近距離傍観者だった。無駄の使い方が巧妙だから淺野がだるそうに歩いているだけでも街は無味乾燥になる。無味乾燥な街は淺野だけの街じゃないボクたちの街でもある、というようなことをメリメリと感じながらボクは青山真治監督の(田村正毅カメラマンの)映画を観るのだった。