2010年7月24日土曜日

死ナナイ仕様 [デスプルーフ]

アメリカンな女の子たちの溌剌なオシャベリが、甲高い嬌声の強震な鼓動となって拍を刻む[デスプルーフ](2007年公開)は、言葉が意味を超えて波動だったよ。感情表現のエフェクトとして言葉を乱射するのはタランティーノ監督の得意技だけど、今度は身体的な人間楽器によるコミュニケーション実験だから、声色とビートと肉弾戦がマゼコゼの旋律になって軽快に奏でられるよ。古くて新しい悪魔のささやき感覚だね。登場人物はみんな、馬鹿馬鹿しいほどに正直だから滑稽だし悲しいし美しい。CGなんかじゃないナマの小娘によるスタントアクションの激突カーチェイスは大脳を経由せずに腹部を貫通してダイレクトに肝に刺さる悦楽だよ。ブラボーと叫べばタランティーノはニタリと笑う筈さ。

2010年7月23日金曜日

遠くの声は響いて聞こえる [パラダイス・ナウ]

[パラダイス・ナウ](2007年日本公開)は「パレスチナ人監督ハニ・アブ・アサドがイスラエル人プロデューサーと手を組み、ヨーロッパ各国との共同製作というかたちで作りあげた作品である」と配給ホームページには書いてある。2005年ベルリン国際映画祭で青い天使賞をもらった。
舞台はイスラエルのヨルダン川西岸地区。パレスチナの人々が暮らすエリアだ。主人公のパレスチナ青年は10歳の時に、父が密告者として処刑された。「密告者の罪」とは何か。ニッポンでぽけっと暮らしているボクにはわからない。
成人した青年は(幼なじみの友人と共に)自爆テロの実行者に抜擢される。これは名誉なことらしい 。二人は決行のために目的地であるテルアビブへと向かう。だけど出来事は裏目裏目に展開する。それでなくても切ない道行きなのに、どうしてこんなことが起きちゃうんだということが起こり続ける。筋書き通りには事が運ばないんだ。これがパレスチナという現象なのか。
生まれてこの方、ずっと、抜け出すことのできないパレスチナキャンプでの重圧生活だった彼ら。どんづまりの行き止まりの立ち往生の渇望の淀みの溜まりが、粘りのあるヤルセナサになって肌にまとわりついてくる。
ナニゴトも気の持ちようだなんて誰が言うのだ。そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないじゃないか。今日の次に明日が来ることを疑いながら生きている人々。一万年ってどのくらいの長さかなんてボクにはわからない。愛しい人の呼ぶ声が今の彼らには届かないんだ。なんとかしてほしいけど、なんともならない時間が一万年あったんだ。

2010年7月14日水曜日

やかましいあつかましいうらやましい [プラネット・テラー]

タランティーノと気の合う仲間らしいロバート・ロドリゲス監督の[プラネット・テラー](2007年公開)は、テキサスの泣き虫ゴーゴーガールが片足を失って、色々あって、暴れまくって、メキシコの浜辺で女帝に君臨するまでのオハナシなんだ。あんまり面白くって(筆舌に尽くしがたいほどお下劣だから)詳しいことは書けないよ。だけど、とてもロドリゲスなムービーだから、その線が好きな人にはタマラナイと思う。
特製ソースがヌラヌラ滴る骨付きバーベキューにモワッと下心をそそられちゃうのは、人間はしょせん肉なんだと死んだら喰われちまうんだと、だから精一杯生き延びろよとおっしゃっているロドリゲスの叱咤激励なんだね。
国家権力の底がカポッと抜けていることをちゃんと見抜いていたとはエライですねロドリゲス。それにしてもアメリカの楽観はケタハズレだ。見習いたい。

2010年7月13日火曜日

ウディ・アレンは1935年生まれ [タロットカード殺人事件]

意外と誰とでもすぐ寝ちゃう女子大生がスカーレット・ヨハンソンっていうのどう? 観たくならない? ウディ・アレン監督の[タロットカード殺人事件](2007年公開)のことだよ。
ウディ・アレンといえばボクのオヤジと同じ世代で、[ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう]は、ボクが中学生の時に(たしか)池袋の文芸座で観た。帰り道の池袋西口公園(最近はウェストゲートパークというらしい)で自衛隊に勧誘されたのを覚えている。あっさり断ると勧誘員は「そういう友達がいたら紹介して」と名刺を手渡した。そういう友達はいたけど紹介しなかった。
[ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう]はオムニバスなのだけど、そのうちのひとつの中でウディ・アレンは全身白タイツで黒縁眼鏡をかけて精子の役を演じていた。とんねるずのモジモジ君の原型はこれじゃないかと思う。
[タロットカード殺人事件]の原題は[Scoop]。ジャーナリスト志望の女子大生スカーレット・ヨハンソンが老マジシャンのウディ・アレンを相方に殺人事件の真相を追うという推理コメディなんだ。キッチリとした映画だったよ。寸分の隙もない。これ以上何も排除できないだろうし何も補足しなくてよい。作劇術や演出技法といった手際が鮮やかなんだね。観客の推理(妄想)を軽やかに転がしてくれる。死者から証言を聞くなどというオキテ破りな設定も面白ければそれでいいよね。スカーレットとウディの掛け合い漫才がとにかくオカシイんだ。磨き抜かれた皮肉がピッカピッカに輝いていたよ。

2010年7月12日月曜日

たたかうお兄さん [ボーン三部作]

[ボーン・アイデンティティー](2003年公開)[ボーン・スプレマシー](2005年公開)[ボーン・アルティメイタム」(2007年公開)3部作によって、相互追跡という物語形式が定着したよ。CIAに復讐する元スパイのジェイソン・ボーンと、それならばジェイソン・ボーンの行動をキッチリ探査するCIAの両方に、映画の追跡カメラが貼り付いたからね。
CIAが巨費を投じて育成した知的スナイパー・ジェイソン・ボーンにマッド・デイモンをキャスティングした時点で作品のテイストは決まったんだと思う。ポーンの人柄と境遇に同情できなかったら成立しないでしょう、このシリーズは。ジェイソン・ポーン(マッド・デイモン)のやさしくて切ないマナザシが、諜報員の孤独を示すし、逃げているのか追いかけているのかわからなくなっちゃうストーリー展開は理念なき曖昧社会の全身像をムッチリと映しているね。007のような非情で色欲なスパイ映画はウソっぽいから、隣のお兄さんが実はスゴイ人でしたっていう親近感路線に観客が集うんだね。
失われた記憶を取り戻すという典型的な筋立ては、今ならば自分探しと名付けられて、人生に迷っている(多くの)人々の共感を得るのだろうと思う。でも、自分探しって危険な行為のようだから気をつけてね。ジェイソン・ボーンもそこには充分気をつけているようだったよ。でもハマッちゃったんだ。
ボクはこの三部作を逆順に観た。[アルティメイタム][スプレマシー][アイデンティティ]と三部作を321と見戻ったんだ。クリストファー・ノーラン監督の[メメント]を体験したときのようなクラクラする時間の錯綜感が心地よかったよ。時系列と脳内イメージの混線もボーンシリーズの表現コンセプトだと思うから、こういう見方も(結果的に)正解だったね。
もはや諜報機関だけが情報を占有しているのではない。ボーンなんてグーグル検索で国家組織と対等に立ち向かっちゃうんだ。チカラより機転(センス)が有効だというリアリティ(直感と体験)への信頼がこの映画の好感度だと思うな。アタマとカラダとインターネットで世界は構成されているんだよ。

2010年7月11日日曜日

誰のためにエリーゼのために [エレファント]

どのくらい時間が経てば昔話になるのだろう。きのうの出来事は昔話だろうか。去年はどうだろうか。十年前はどうだろうか。一万年前はどうだろうか。百四十億年前はどうだろうか。
1999年に起きたコロラド州コロンバイン高校銃乱射事件をモチーフにした映画[エレファント](2004年公開)は沈着冷静な映画だった。犯人も被害者も目撃者も、淡々と歩いている。興奮しない。ただ一般的な時間が流れていく。いつも通りの小さな出来事が繰り返される。でも今日は何かが少しだけ違うような気がする。そんな一日だった。
生きている時間を確かめるように生徒たちは校内を歩く。雲が流れる。オシャベリをする。歩く。ピアノが聞こえる。雲が流れる。時間が重なる。歩く。撃つ。撃たれる。倒れる。雲が流れる。ピアノが聞こえる。
カメラは誰かの歩く姿に寄り添ってついていく、校庭を図書館を長い廊下を、ずっとついていく。ガス・ヴァン・サント監督によれば観客が考える時間をつくったという。でもボクは考えなかった。考えないでポケラーと観ていた。
ベートーベンのピアノ曲を弾いているのは無差別殺人の犯人だ。こないだ生まれたばかりの高校生だ。たぶん何も考えないで弾いている。

2010年7月10日土曜日

呼吸する闇 [殯(もがり)の森]

[(もがり)の森]2007年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した作品。河瀬直美監督は10年前にも[萌の朱雀]でカンヌ映画祭新人監督賞を受賞している。両作とも河瀬監督の地元奈良が舞台だ。
[殯(もがり)の森]は、不安定な手持ち撮影や素人っポイ演技だからリアルなのではないな。些細なことを感受する孤独な高齢者を題材にしているから現代的だというのでもないな。奈良の農村の日常風景はそれだけで存分に既視感だし、気持ちの中を風が吹き渡っていくのは凡庸ゆえの無抵抗さだと思う。ボクは安穏と緊迫の混成気分のまま映画を見続けたよ。
深い森だと人は方向を見失う。目的のない時間の中では天国と地獄を同時に体験する。生きていると思えるのは生きているからでしょ、と気の利いた言葉をザワザワ囁くのは森の熊笹だった。転んで割ってしまったスイカの紅い熟れた実の甘い果汁で肌がヌヌッと濡れる。色気が女だ。
人生は(やっぱり)一回キリなのだろうか、転生はあるのだろうか。雨上がりの闇は寒いけど、体温だけがあたたかい。生きているウチにできること。体温が体温をあたためる。
森では懐かしい死者にも出会い、少しの間だけ一緒に踊る。でも、もういいだろう、さあ、帰ろう。陽のあたる大樹を見あげれば安堵する。素手で土を掘れば充実する。天高くヘリコプターが飛んでいく。現実のお出迎えだ。現実の中で人は死ぬ。安らかに悲しむ。たくさん泣けばいいんだ。

2010年7月9日金曜日

ゼンニンなおもて包丁を研ぐ [転々]

うしろ髪をフサッとのばした自称殺人犯の無気力中年が、あてもなく歩きながら告白をする。変形リーゼントの巨頭青年は、態度は悪いがキチンと話を聞いてあげる。珍道中なロードムービー、三木聡監督の[転々](2007年公開)は、別に高級でもない見慣れた材料に塩と胡椒と砂糖を振りかけて味噌を塗りたくって味を濃くしてエイヤっと手荒に盛りつけてさあ召し上がれと出された大皿郷土料理のように、好みにさえ合えばとても美味しくて病みつきになる。みかけほど脂っこくはない。意外と素材は厳選されているようで噛み続けるとふくよかな味わいがお口いっぱいに広がる。
畳で殴られたら意外と痛いとか、時計店の生計を気にしちゃいけないとか、為になる情報も提供してもらえる。
場末のスナックのママは昭和仕立ての立派な木造家屋に暮らしていて小泉今日子である。昔のよしみのうしろ髪殺人犯が三浦友和で、同行の変形リーゼント巨頭青年のオダギリジョーと一緒にママの家に泊めてもらう。ネットリと濃いキャラクターの三人が噛み合わない会話をポカポカと平気で続ける乾いた展開がリアルだ。現実の会話ってほとんど噛み合っていないでしょ。現実の人間関係ってほとんど噛み合っていないでしょ。更に遠縁のぶっ壊れたギャルが闖入して、会話のズレが拡張して摩擦熱が急上昇する。卓袱台的なカオス表現である。
物語が沸騰しそうなところでポキッと終わる[転々]の結末は粋である。イナセである。テヤンデエである。

2010年7月8日木曜日

田園に伏す [腑抜けども、悲しみの愛を見せろ]

[腑抜けども、悲しみの愛を見せろ](2007年公開)ズガッと肝をかち割る刮目のタイトルだねえ。
ニッポンの農村に夏が来た。というノホホンとした情景気分に浸る間もなく、父と母はトラックにひかれてバラバラ死体だったし、兄は黙々と炭を焼きまくるし、兄嫁は鼻歌交じりで呪い人形だし、妹はジット見ているし、ワタシはバスに揺られて眠ってしまう。兄はナガセだし兄嫁はナガサクだし私はサトエリだ。明快なエピソードがCM的なビジュアルでスパスパと小気味よく展開する、いわゆる21世紀ムービーである。
ジャンルは負け犬シネマだけど態度がイサギヨイ。堂々としていて風格がある。こんな映画がニッポンにも登場してくれて、まことにヨロコバしいです。扇風機がぷうんとまわるカットが心に凍みます。夏には夏の物語。庶民には庶民の共感を。

2010年7月7日水曜日

感じる都市 [ TOKYO ! ]

「とうきょうビックリ」と読むんだろうか。
映画TOKYO ! ](2008年公開)は、ミッシェル・ゴンドリー、レオス・カラックス、ポン・ジュノという三人の尖った監督の短編競作だ、いわゆるオムニバス。三話とも舞台は東京。三つ巴、三位一体、三者三様の物語。たくさんの違和感をコックンと可愛く飲み込んだヤブニラミ都市TOKYOの肖像が三ツ目の巨人となって立ちあがる。
ミッシェル・ゴンドリー監督の[インテリア・デザイン]が一話目だ。彼氏との仲がカクカクと噛み合わなくなって自己認識が危うくなってナントあんなものに変身してしまうカワイイ娘は愛車をスクラップにされてもへこたれず、非人間の新しい生活を意外と楽しんでいる。ゴンドリー監督の変身譚はPVでお披露目済みだがモチロン深く進化しているよ。
二話目は不快の帝王とボクだけが呼んでいるレオス・カラックス監督の[メルド]。あいかわらず不快の名作だぜ。そのうえヤマトダマシイを逆なでしやがる見事なお手並みだ。ポンヌフから走り続けてきたのかドゥニ・ラヴァンは「糞ったれ」を掲げて銀座の舗道を構わず突っ走るが、その姿がヤッパリ汚くて気持ち悪くてイカレてる。レオス監督、衰えを知らず1960年生まれだ。
さあ三話目が実は本命、ポン・ジュノ監督の[シェイキング東京]。東京の夏の湿気た暑さがヌメっと肌にまとわりついてくる映像感覚は、ファーストシーンから裏側を剥き出しにする。キチンと整頓された木造家屋の薄暗い部屋に、男が一人秘やかに暮らしている。鮮やかな赤いシャツのピザ屋の娘が配達に来て、ジット見つめるものだから、事件は起こる。ポン・ジュノ監督が東京の現代から引っ張り出した魔物は生々しくて妖艶だ。揺れるのは大地だけではない気持ちだけではない。都市の霊気だった。

2010年7月6日火曜日

白か黒か [龍馬暗殺]

[龍馬暗殺](1974年)は毒々しいモノクロだった。
地殻変動のような幕末の胎動が白と黒の強烈コントラストによって極められている。個人は常に理想と現実の狭間に押し込められて困っちゃうけど、肝心なのは意気なんだよ。意気込みなんだよ。ヌラリと身をかわして緩衝地帯から高みの見物を決め込むヤカラも中にはいるけど、だがしかし、龍馬を描くシネマの立ち振る舞いはどうだ。どうみてもケツをまくった脱藩的映像表現だ。開き直ってモノオジしない。客観的とか歴史的とかヤヤコシイことをキッパリ否定して、物語を主観の制御下においた。破れかぶれの突進力がスゴイ。暗いトコロで殺すから暗殺なんだ。

2010年7月5日月曜日

ホットする石 [キサラギ]

ずっと貸し出し中だった話題の日本映画[キサラギ](2007年公開)をやっと借りてきた。
簡易的な舞台セットとパタパタ演技が深夜ドラマのノリで、低予算を素直に暴露していて高感度バツグン。
C級アイドル[如月(きさらぎ)ユキ]の一周忌に五人の熱烈ファンは場末の雑居ビルのペントハウスに閉じこもった。とにかく追悼のオシャベリに興じる。痔の薬のCMに似ている写真ぽいキッチュな回想シーンも要領がヨイ。ここぞというタイミングに挿入されて娯楽度タカシ。喪服姿の男五人が狭い部屋に閉じこもって延々とグタグタ言い合うワンシチュエーションドラマだけど、[如月ユキ]の死因を推理する展開は探偵モノの様相で、掛け合い漫才というかコントというか会話のテンポにビートが効いているから強引な筋立てもエネルギッシュな作風だと納得する。
五人の熱烈ファンはそれぞれに事情を抱えていて現実社会ではパッとしない連中のようで自分の殻に閉じこもっている。でも誰だって自分の殻の中であがいているのだろうし、理不尽がグイグイと迫ってくることだってそりゃ(みんな)あるだろう。いや理不尽は日常の石ころだ、そこらに平気で転がっている。そんな生活者にとってアイドル[如月ユキ]は天使だった。天使の微笑みだけが生きる糧だった。悲しいけどソレが(とっても)現実な男が五人。それもいいじゃないか、アイドルに夢中になって何が悪いのだ、という背水の熱気が映画に充満してハチキレそうだ。心に穴ボコ空けたまま気力で生きているたくさんの普通の人々が[キサラギ]の切なく燃えるメッセージに感涙していると思う。ボクも泣いた。

2010年7月3日土曜日

対抗見地 [A],[A2]

森達也監督の記録映画 [A] (1997年公開)と [A2] (2001年公開)の連作は、麻原逮捕後のニッポンの社会状況をオウム真理教の内部から観察した作品だ。見地というものを強く意識させる。映画の主体(まなざし)は、残ったオウム信者たちと共に居場所を求めてウロウロと彷徨う。ウロウロと揺れ動く集団に対する風当たりを記録している。今のニッポンには(実は)ウロウロと揺れ動く自由は確保されていないんだ。{A}と{A2}の、この揺れるマナザシ方式は森達也監督の著作 [死刑] (朝日出版社)の取材態度にも感じられる。[死刑の帯文にはこうある。「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」
森監督はオピニオンが硬直したときに起こる恐怖を知っている。
主体が彷徨う映画の方法は、とても恥ずかしいことの筈だ。明け透けに腹を見せちゃうこんなリスクの高いノーガード戦法を使うのは(社会的な)未熟を露呈してしまうことなのだ。一般的な(大人っぽい)国民はガードの仕方をしっかり勉強して上手に立ち回りながら生活している。一般的な落ち着きを装っている。
矢吹丈は現実の社会よりもリングの上の方が居心地がよかった。そしてリングの上で灰になった。
今もう一度、[A]と[A2]を観てごらん。きのうの自分がハズカシイぞ。

2010年7月2日金曜日

あたらしキヨシ [トウキョウソナタ]

まずはカップに注いだ牛乳をレンジで温めて、その上から濃いめの珈琲をドリップで落とす。シナモンパウダーをパフパフふりかければ家庭内カプチーノのできあがり。これをスターバックスのタンブラーに入れて出かける。スターバックスの店内で本など読みながら飲むこともあるし、公園でハトを眺めながらしみじみとススルこともある。しみじみ見ると東京の空は意外とノスタルジックだ。
黒沢清監督の[トウキョウソナタ](2008年公開)はカンヌ映画祭ある視点部門で審査員賞を受賞した。
黒沢清監督というとホラー映画のイメージが強いかもしれないけど、この映画はあたらしいタイプのキヨシ流なので新鮮な気持ちで観た方がよい。あらぬ世界へとフワフワ漂って昇っていってしまいたい気持ちを我慢して、一生懸命こっち側に踏みとどまって痛みに耐えている監督の姿が想像されてイジラシイから、幻想シーンにもボッテリとした重量感がある。これがあたらしいキヨシリアリズムなんだな。
見慣れた私鉄沿線の住宅地がウルトラQの再放送のような既視感だし、家族の会話の言葉の羅列はツンツンとツボをついてくる、そこは現在の痛点だ。会社も学校もハローワークもよその家庭も美しいピアノの先生も、なんだか乖離しちゃっているけど、何から何が乖離しているのかわからない。
多重人格的家庭生活を描いた刺激的映画では豊田利晃監督の[空中庭園]があった。この作品も妻であり母親でありオンナである主役が小泉今日子だった。この配役の符号は印象的だ。映画と映画が繋がっている。
父親には父親の抱える問題があって、長男には長男の次男には次男の問題があるけど、そんなことを言い出したら教師には教師の問題があってピアノの先生にはピアノの先生の問題がある。昔の同級生にも昔の同級生の問題があった。偶然なのか必然なのか押し入ってきた強盗にだって強盗の抱える問題がしっかりあった。おまけにこの強盗は役所広司だから(そりゃ)大問題だ。そしてそのすべての問題を妻であり母親でありオンナである小泉今日子が一手に引き受けることになる。引き受けるだけのフトコロを示すんだ。なぜゆえにコイズミは多重問題をフトコロに包み込んでしまえるのか。乖離的女性だからだと思う。一見バラバラで脈絡のない日常の様々な出来事を女コイズミは家事一般として平然とこなしていた。(女にはこれができるんだ) ちなみに失業中の父親は香川照之。アノゆれる香川だ。心の底に鬼を秘めている香川だ。笑わない美人のピアノ先生は井川遥で、庭に開かれた一軒家の居間で午後の陽射しを浴びながら淡々と子供たちにピアノを教えている。この居間のピアノ教室は、エピソードとエピソードが触れ合う物語の交差点になっていた。意味なく重要な場所ってある。
[トウキョウソナタ]は希望を語らないホームドラマだけどスコッと抜けて爽快だ。

2010年7月1日木曜日

笑う背中 [潜水服は蝶の夢を見る]

最近よく小石につまづく。足が小石の高さ以上にあがっていないからだと思う。腿上げ運動をした方がよいと何かの何かで読んだ。鍛えるというより肉体が衰えていく速度を遅らせるそうだ。つまづいた小石はどれだろうかとしゃがみ込んで探してみても似たような小石がパラパラしていてわからない。目の前の犯人を特定できないんだ。ハガユイ出来事。
ジュリアン・シュナーベル監督の[潜水服は蝶の夢を見る](2008年日本公開)は色々な賞をもらっているけどカンヌでは監督賞をもらった。フランス語でしゃべるフランス映画だ。映画を観るならフランス映画さ。
脳溢血の全身麻痺で言葉がしゃべれなくなった男の主観(脳内)物語。男は雑誌ELLEの編集長ジャン=ドミニク・ボビー。実話なんだよ。ポワポワとかすむ左目の視界が病室のドアや言語療法師や見舞客を見つめる。血管が透けて見えている瞼の裏側の映像もある。麻痺していないのは左目と記憶と想像力だけだと本人が(脳内で)言っていた。身をよじったままの姿勢で固まっているボビーの身体は標本のようだ。なのに、まばたきの合図だけで重厚な自伝を書き上げてしまった。でもこの映画は、不自由な身体なのに不屈の精神でモノゴトを成し遂げたという根性美談ではないよ。(妻ではなく)愛人とのベッドシーンを夢想するし、医師の怠慢な処置には容赦なく(脳内で)毒づく。病室に訪れる見舞客も形式的だったり自分本位だったり無関心だったり色々だ。妻も息子も娘も標本のような父を標本のように眺める。ああなんて正直な人々なのだろうと思う。原作の伝記は読んでいないけれど、こんなに率直な態度で映画化ができるなんてスゴイなとボクは思った。根性美談の方向に持って行かなかったところがエライ、とボクは思う。
病院は海辺にある。窓から吹き込んでアイボリーのカーテンをハラハラと揺らすのは浜風だ。海の見えるテラスで面会してもよい。砂浜に出て子供たちの遊ぶ姿をぼんやり左目で見つめていてもよい。車椅子のボビーが波立つ洋上にポツンと浮かんでいる心象風景は孤立のメタファだった。「さびしい」なんて決して言わないボビーの孤独な戦いがわかる。これが映画だね。
でも彼にはたくさんの思い出があった。豊かな想像力があった。そしてアウトプット装置である動く左目があった。まばたきの合図でアルファベットを指定して単語をつくり文章を綴る。そして物語が出来あがる。原始的な創造のプロセスが披露される。
この映画では主人公の左目が見たモヤモヤのユラユラな映像が大半なんだ。しつこく続く。実験映画かいなと思うほど続く。でもこれは一般娯楽映画だ。そして、やっと見せてくれる客観的な(状況がわかる)映像は社会のありのままの姿だった。醜いし美しいし痛いし痒いし甘いし辛いし好きだし嫌いだった。
小石につまづいても転んだわけではないのでボクはスグに気を取り直す。信号待ちで前に立った娘さんの背中には表情があった。知らないお嬢さんの背中がボクを見て笑っている。ボクは用事もないのに街中を歩く。時々立ち止まって(知らない)娘さんの背中を眺める。楽しい一日の過ごし方だ。