2010年7月1日木曜日

笑う背中 [潜水服は蝶の夢を見る]

最近よく小石につまづく。足が小石の高さ以上にあがっていないからだと思う。腿上げ運動をした方がよいと何かの何かで読んだ。鍛えるというより肉体が衰えていく速度を遅らせるそうだ。つまづいた小石はどれだろうかとしゃがみ込んで探してみても似たような小石がパラパラしていてわからない。目の前の犯人を特定できないんだ。ハガユイ出来事。
ジュリアン・シュナーベル監督の[潜水服は蝶の夢を見る](2008年日本公開)は色々な賞をもらっているけどカンヌでは監督賞をもらった。フランス語でしゃべるフランス映画だ。映画を観るならフランス映画さ。
脳溢血の全身麻痺で言葉がしゃべれなくなった男の主観(脳内)物語。男は雑誌ELLEの編集長ジャン=ドミニク・ボビー。実話なんだよ。ポワポワとかすむ左目の視界が病室のドアや言語療法師や見舞客を見つめる。血管が透けて見えている瞼の裏側の映像もある。麻痺していないのは左目と記憶と想像力だけだと本人が(脳内で)言っていた。身をよじったままの姿勢で固まっているボビーの身体は標本のようだ。なのに、まばたきの合図だけで重厚な自伝を書き上げてしまった。でもこの映画は、不自由な身体なのに不屈の精神でモノゴトを成し遂げたという根性美談ではないよ。(妻ではなく)愛人とのベッドシーンを夢想するし、医師の怠慢な処置には容赦なく(脳内で)毒づく。病室に訪れる見舞客も形式的だったり自分本位だったり無関心だったり色々だ。妻も息子も娘も標本のような父を標本のように眺める。ああなんて正直な人々なのだろうと思う。原作の伝記は読んでいないけれど、こんなに率直な態度で映画化ができるなんてスゴイなとボクは思った。根性美談の方向に持って行かなかったところがエライ、とボクは思う。
病院は海辺にある。窓から吹き込んでアイボリーのカーテンをハラハラと揺らすのは浜風だ。海の見えるテラスで面会してもよい。砂浜に出て子供たちの遊ぶ姿をぼんやり左目で見つめていてもよい。車椅子のボビーが波立つ洋上にポツンと浮かんでいる心象風景は孤立のメタファだった。「さびしい」なんて決して言わないボビーの孤独な戦いがわかる。これが映画だね。
でも彼にはたくさんの思い出があった。豊かな想像力があった。そしてアウトプット装置である動く左目があった。まばたきの合図でアルファベットを指定して単語をつくり文章を綴る。そして物語が出来あがる。原始的な創造のプロセスが披露される。
この映画では主人公の左目が見たモヤモヤのユラユラな映像が大半なんだ。しつこく続く。実験映画かいなと思うほど続く。でもこれは一般娯楽映画だ。そして、やっと見せてくれる客観的な(状況がわかる)映像は社会のありのままの姿だった。醜いし美しいし痛いし痒いし甘いし辛いし好きだし嫌いだった。
小石につまづいても転んだわけではないのでボクはスグに気を取り直す。信号待ちで前に立った娘さんの背中には表情があった。知らないお嬢さんの背中がボクを見て笑っている。ボクは用事もないのに街中を歩く。時々立ち止まって(知らない)娘さんの背中を眺める。楽しい一日の過ごし方だ。

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